たまきちの「真実とは私だ」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

最後通牒はハル・ノートでなく日本の乙案の方だった

日本がアメリカとの戦争を決意したのは、ハル・ノートという過酷な条件の最後通牒をつきつけられたからだ!

といまだに思っている人が多いが、これは大の字が10コくらい並ぶ大ウソである。

真実はこうなのだ。

日本は1941年11月5日の御前会議で、1か月後の日本時間12月1日0時までに(以下すべて日本時間)日米交渉がまとまらないなら、12月初旬に米英に武力行使を仕掛けることと決定した。このとき日本がアメリカに渡すために用意した、譲れるギリギリの提案は「乙案」と呼ばれ、(甲案もあったがこれは最初から完全ダメもとのものであった)この乙案を日本は、11月21日にワシントンでハル国務長官に提示した。つまりこれをアメリカが、9日後の12月1日0時までに飲まなければもう開戦は決定だったのである。

ところが、アメリカは暗号解読で、乙案を受け入れなければ開戦という日本の腹づもりを知っていたのだ。そしてアメリカの、乙案に対する回答は「ノー」であった。その「ノー」は11月27日に、日本大使を呼んでハル国務長官から告げられた。つまり、この時点で日米とも「これで戦争だ」となったわけである。そのときハルが同時に渡した「アメリカの条件はこうだ」というのがハル・ノートである。

お分かりだろうがこの状況、日本の乙案への「ノー」がすべてなのであって、ハル・ノートはどうでもいいものなのである。ただ「ノー」の返事だけだと暗号解読できてることが日本にバレてしまうから、ハルもこちらの案を提示する必要があっただけなのだ。だからハル・ノートの要求は厳しいながらも期日、範囲が不明確で適当な、元のアメリカの一方的要求であるところの原則論(もはや他国への侵攻は認められる時代ではないというもの)にもどったものなのであり、また公式文書ではない私的案の覚書で間にあわされているのである。

だからハル・ノート最後通牒でもなんでもない。最後通牒とは「平和的交渉を打ちきり、最後的な要求を示すとともに、それが認められなければ、自由行動・実力的行使をすることを述べた外交文書」(三省堂 新明解国語辞典)のことだ。上記の経緯では、日本の乙案のほうが、最後通牒になっている

ハル・ノートが日本を追いつめた最後通牒とされているのは、かの戦争、日本に非はないのだとしたい人間が、そういうデマを日本人に浸透させようとした結果である。現代日本人も日本は悪くないと思いたいだけにそれを簡単に受け入れてしまった。「ハル・ノート」というよく分からない横文字単語も効果があった。今日では「ハル・ノート」という言葉は「日本は悪くない。アメリカが悪い」という意味の呪文になっているといえる。

このデマの浸透に大きな貢献をしたのは、日本の教科書であった。

上図は、私の家にある日本史教科書(東京書籍)と日本史図表(第一学習社)からの抜粋なのだが、どちらも、このどうでもいいハル・ノートを前面に出して記述している。特に教科書のほうは、「11月26日にアメリカのハル国務長官が強硬な提案を示すと、12月1日に開かれた御前会議では12月8日の開戦を決定した」とまるでハルノートの強硬さがために日本は開戦を決定したかのように書いている。

しかしより大きなゴマカシは期日だ。教科書・図表とも、真珠湾攻撃の日をはじめ、すべて日本時間で書いているのに、ハル・ノート回答」だけ、11月26日とアメリカ時間で表記されているのである。上述したようにハルの回答は日本時間では11月27日なのだ。下図の年表では、真珠湾攻撃ハルノートをのけて、月までしか書かれてないのに、この2件だけ日まで書かかれている。

なぜこのようにしているかというと、おそらくは、真珠湾攻撃の奇襲艦隊出撃が日本時間の11月26日だからである。つまり史実は、ハル・ノートが手渡される前に奇襲艦隊は出撃しているわけだが、ハル・ノートを26日とすることによって、ハル・ノートのために日本艦隊は出撃したという「ハル・ノート最後通牒説」に沿った目くらましができると、この教科書作成者たちが考えた、いや、そう書けと文部科学省から指導があったからだと考えられるのである。厳密に調べればひっかかるはずのない手なのであるが、誰しもがそこまで調べるわけではない。「定説」というのはこうして広まっていくのだ。

ちなみにこれは現在の一般書籍でも同じであるらしい。下記のものは2019年出版の某有名歴史著述家が編んだ本であるが、ハルノート真珠湾攻撃の艦隊出港を同じ11月26日とし、しかも、ちゃんとハルノートを先に書いてあるのである。やれやれ。

こんな嘘を平気でついているのであれば、よく言われる、「真珠湾攻撃前の30分前にハルに渡すはずだった交渉決裂宣言(実質の宣戦布告)が、日本大使館員の不手際と怠慢で攻撃後になったのはウソで、最初から日本は相手に迎撃準備をひとつもさせないために、わざとそれを遅らせたのだ」という説も本当ではないかと疑惑がもたれよう。そもそも、大使館の不手際で遅れたなら、このときの大使館責任者は切腹もののはずなのに、のち出世していることからも、わざと遅らせたのを疑うなというのは無理である。すでに日本艦隊は12日もかけてこっそりハワイに近づいていたのだし、また、交渉決裂宣言が攻撃開始の30分前に手わたされていたとしても、その12日間、交渉は続けられていたのだから、アメリカが「卑怯なだまし討ち」という名目につけこんで国民を奮起させることができたのには変わりはなく、つまりは交渉決裂宣言の手交は、攻撃開始前だろうが後だろうが大した違いはないわけで、日本側からすれば、より奇襲が確実となる後者をえらんだということにすぎないのだろう。通告が間にあっていたら卑怯なジャップという汚名をこうむらずに済んだのになどというのも、「ハル・ノート最後通牒説」同様、意図的に流されている身びいきの自己欺瞞にすぎない。

しかし「日本スゴイ」の無邪気な自国礼賛がいまだまかり通っているところをみると、これらの自己欺瞞も簡単に払拭できそうにはなさそうである。

(補足※ なお、日本艦隊が11月26日に出撃したのは、アメリカ時間の12月7日、すなわち12月の第1日曜日に奇襲を行うつもりだったからである。日曜日はより油断しているからだ。すなわち第1日曜日が12月7日より前だったら日本艦隊は11月26日以前に出撃していた。11月中に日米交渉がまとまったりしたら艦隊は引き返すこととなっていたが、これはもちろんアリバイ作りにすぎない。日本側は乙案をアメリカが飲むなんて最初から思っていなかったのだから)

真珠湾攻撃はすべて山本五十六のせいにせよ!

昨年末は、真珠湾攻撃から80年ということで、いろいろ特別番組もあったようだが、昔から12月8日を迎えると必ず放映される映画がある。『トラ!トラ!トラ!』(20世紀FOX社 1970年制作)だ。私もけっこう見た口だが、この映画には大きな疑問があった。

資本面からすると完全に米映画であるのに、やたら日本人が喜ぶ内容になっているのもふしぎなのだが、それ以上に不思議なのは、まるで真珠湾攻撃は、山本五十六ひとりが決定し進めたかのように描かれていることだ。しかもとてもかっこよく!

たとえば、この映画では山本五十六が「日米戦、避けえざるとき、私が連合艦隊司令長官であるかぎり、真珠湾作戦は必ずやる!」と連合艦隊幕僚たちを一喝するシーンがある。だが、連合艦隊司令長官にはそのような権限はない。そういえるのは、海軍の作戦を決める軍令部(陸軍の参謀本部にあたり、天皇に直結している)のトップたる軍令部総長だけだ。ところがこの映画には軍令部という言葉は出てくるが、軍令部自体は出てこない。

現在、一般には、山本五十六が「真珠湾攻撃ができないのであれば私は連合艦隊司令長官をやめる」と言ったので、軍令部総長永野修身が「それほど山本に自信があるならやらせてみようじゃないか」と採決したのだといわれている。しかしこの話は、山本自身が、ではなく、部下の参謀が軍令部に向かって「真珠湾やれないなら、山本さん、長官やめるってよ」と言った(らしい)ものにすぎない。どっちにせよ、やると決まったからには軍令部総長が責任をもつのが当然のはずである。それが「山本に自信があるなら」では責任を回避している。また、これほどの作戦は最終的に天皇の裁可だって要る。つまり少なくとも真珠湾攻撃をやることに対して、海軍上層部、国家上層部のコンセンサスは、とれていたはずなのだ。なのに、「山本五十六真珠湾攻撃を敢行した」と(もちろんこの映画の前から)とらえられている。しかも英雄的に。これは一体なぜだろうか?

この颯爽とした山本五十六像に戦後の海軍善玉論が反映されているのはたしかだろう。あの戦争、悪いのは陸軍だ。海軍は冷静にみており対米戦争には反対だった。それが証拠に東京裁判において海軍からは死刑者が出ていない、などなどというあの海軍善玉論。たしかに人間が陸上の動物であるかぎり、海軍より陸軍のほうが最終的な主導権をもつのはおかしくないことであり、満州事変にはじまる日本の領土拡大は陸軍が中心でおこなってきたことだ。しかし、対米戦に関しては真珠湾攻撃をはじめ、開戦へのルビコン河となった南部仏印進駐も、海軍に積極性があったことが今では知られている。くわえて、東京裁判で海軍から死刑者が出なかったのは、海軍がまとまってうまく立ちまわり、陸軍にその責任をおしつけたからだとも最近になり、ちらほら言われだしている。

もしそれが本当ならば、海軍の生き残りは、実は、ていよく死んだ山本五十六真珠湾攻撃のすべてを押しつけてしまったということではないのか。ボクたちじゃありません。山本君がやったんです! 

そもそも真珠湾攻撃は卓越した指揮官山本五十六による大胆奇抜な発想などというふうに言われることがあるが、実際にはそれほど奇想天外、画期的な作戦ではない。すでに1927年に日本側は海軍大学校の卒業図上演習でハワイ奇襲をとりあげていたし、アメリカ側も1931年には、大型空母レキシントンサラトガを使って、日本空母にハワイを奇襲された場合の実地演習を行っているのである。魚雷攻撃で軍港をおそう奇襲も真珠湾攻撃の1年前に地中海タラント軍港で行われており、イタリア戦艦が大破着底している。何も新しい作戦ではないのである。

私個人は、真珠湾攻撃の一番の原動力は、山本五十六ではなく、その下にいた連合艦隊司令部の中堅幹部だったのだと思っている。これは陸軍もそうだったと思う。実働指揮をする40代の中堅のエリート幹部があの戦争を推し進めた中心勢力だったのだ。何となれば戦争というのは血の気の多い連中がやるものであって、おじいちゃんがやるものではないからだ。ここらは今の大臣たちと財務省エリート官僚との関係とも似ている。

つまり山本は若い血の気いまだ多き部下たちの突き上げを食らっていた。彼ら中堅幹部は戦後まで多くが生き残った。エリートは最前線に出ていかないからである。しかも若手中堅というのは代替わりしていくし、結局はトップではなく表に出てこないので、誰が首魁であったということは分かりにくい。あの満州事変を起こした石原莞爾中佐も後年少将に昇進したときは、日中戦争を止めようとしたのだ。太平洋戦争時中堅だった幹部は、戦後、しばらくは戦犯として要職から追放されたが、日本をアジアにおける対共産主義国の先鋒とするためアメリカが日本の復興を促すのに、彼らの追放を解いたから、再び彼らは日本を動かす座に返り咲けた。だからすべてを死んだボスのせいにしやすかった。しかし、死者に責任を一方的に押しつけてはさすがに良心がとがめる。それで山本については「飛行機の時代となることを見抜いていた慧眼の持ち主」とか「真珠湾奇襲というたぐいまれな作戦を考案、実行した優秀な戦術家」とか「日本を守ろうとして対米戦に最後まで反対した愛国の軍人」とか(勢いあまって反戦主義者と言われるときすらある)英雄・偉人的側面を強調することとした。こうして、今の山本五十六英雄史観とでも呼ぶべきものが誕生したのではないか。

アメリカにとっても(日本の)海軍を見逃しにすることは都合がよかった。そうすることにより、日本人をして、アメリカに対する精神的クリアランスを持たせ、日本占領をスムーズに進めることができるからだ。日本人のアメリカに対する憎しみの残滓もこれで大いに薄まるであろう。薄めなくてはならない。アメリカは日本人が心のどこかでいまだアメリカを憎んでいると知っているからである。そりゃ知っている。原爆を落としたのだから。こう考えるとアメリカ映画である『トラ!トラ!トラ!』のあのカッコイイ山本五十六描写も分かってくるというものではないか。(ちなみにアメリカは真珠湾攻撃を防げたものだとして反省しているので東京裁判ではその責任を追及していない。そしてそのことは米国民を奮い立たせる材料として使ったことと矛盾していない)

特に『トラ!トラ!トラ!』は公開2年後に沖縄返還が迫っていたので、それを心理的にスムーズに行かせるためもあったのではないか。日本人に「ああ、俺たちも昔はこんな強力な艦隊をもっていて、ハワイのアメリカ艦隊を一方的に粉砕したんだよなあ」と気持ちよく思い出してもらえたら、万事ことはつつがなく運ばれるというものである。
 
のみならず、現在の日本の上層部にとっても山本英雄史観は利用価値が高い。アメリカに負けた無念さを昇華し、また真珠湾攻撃の「腹黒さ」をも薄め、日本人に自尊心の満足をもたらす役割も果たしてくれるからである。現在、アメリカが朝鮮半島の真ん中に東西の線を引いてくれているおかげで日本は平和なのであり、平和だからこそ日本人は大人しく、お上にとっても御しやすく安心していられる存在になっているのであるから、国民のアメリカへの憎しみの昇華は常時行われねばならない。また一方で軍人ヒーローを作っておくことは、軍備再強化をスムーズに進ませ得るベースともなる。
 
また現在の日本国民にも都合が良い。日本軍はアホな指揮官ばかりで、それがバカな作戦を行い続け、惨敗を喫してしまったが、ちゃんと優秀な人材も幹部にはいたのだよということで、敗戦の慰めにもなるからだ。
 
以上、多くの人間の利益が一致しているところで、山本が真珠湾攻撃の主役とされ、諸説、証言もその方向で多くが捏造されているのが事実ではないのか。それをマスコミもなんとなく分かっているから、いまだあらゆる書籍は、こと対米戦争の話に至ると、「真珠湾攻撃を敢行した山本五十六」と顔写真つきでそれを載せることをおこたらないのである。
 
真実を示す資料は、山本が1943年に戦死した時、海軍が山本の自邸にまで押しかけて回収、処分しているため、これはかなり自由な絵を描くことが可能だった。真珠湾攻撃の最初の発案や、それの検討命令ですら山本五十六が発信源ではなかった可能性もある。もしかしたら有名な山本のバクチ好きですら、真珠湾攻撃と言う大バクチを山本のせいにするための捏造、あるいは誇張なのではないだろうか。戦後、山本を題材とした小説・映画の内容(特に自身海軍士官だった阿川弘之のもの)の、特に「セリフ」が事実ととらえられて一人歩きしているところもあろう。映画『トラ!トラ!トラ!』などは、本当にしろ、嘘にしろ、そのイメージ定着の決定打となったことはまちがいない。
 
山本について多くの捏造があるなら、山本の言動には矛盾も出てこよう。事実、多くの研究家が山本の矛盾に首をかしげ、「二面性」などの安易な言葉でお茶をにごし続けているのである。
 
言動の矛盾でいえば、たとえば山本は「アメリカには絶対勝てぬ。だからアメリカと戦争するな」と日本を守る的なことを言いながら、なぜ真珠湾攻撃なんてアメリカを怒らせてのちのち日本がコテンパンに仕返しされるようなことをしたのかということがよく言われる。これは、山本がただ海軍組織の官僚――典型的日本の官僚であったということで説明がつくのだ。彼は日本でなく、おのれが属する組織の日本海軍をつぶしたくなかったのである。山本五十六海軍次官時代、ドイツとの同盟に反対しつづけたため、たびたび海軍省に右翼人物が脅迫訪問に訪れ、右翼の暗殺候補者リストにもその名が載せらていたというが、当時、ドイツとの同盟反対は海軍上層部の共通意識だったのであり、また次官が広報担当だったために、山本が目立つ地位にいたというのにすぎなかった。暗殺リストに載せられていたというのも、強硬派のブラフ、あるいは推進意識醸成のためくらいのことであり、本当に海軍の現役将官を陸軍、あるいは右翼が殺したりしたら日本は対外戦争でなく内戦になっていただろう。そもそも三国同盟を結ぶかどうかの話がのっぴきならぬほどに沸騰してきたのは、1939年9月ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったとき以降であり、決定的なことになったのは1940年6月にドイツがフランスを降伏させたときであった。つまり、ドイツが本当に戦争を始めたから同盟の話が本格化し、また開戦後ドイツの快進撃があったからこそ、日本も「勝算あり!」とドイツと同盟をむすび、最終的に対米戦に踏み切ったのである。それらは独ソ戦に影響された陸軍の北進という独壇場を恐れた海軍も同意したことであった。ところがドイツが第2次世界大戦を始めたとき、もう山本は、連合艦隊司令長官になっていて東京にはいなかったのである。三国同盟が結ばれたのはその1年後の1940年9月だ。連合艦隊司令長官になってからの山本は政治的な発言はしていないし、そもそもする立場にない。
 
山本は凡将といわれることもまた多い。その理由はといえば、真珠湾の成功をよし山本の手柄としても、ミッドウェーの惨敗もまた、山本の責任に帰せざるをえないためだ。強引にことを進めたのを同一人物としているかぎり、どちらかだけをとる良いとこどりはできないのである。真珠湾攻撃もミッドウェイ作戦も、一気に米海軍を殲滅せんと企てた、危険な奇襲という大バクチであった。ただ真珠湾では賭けに勝ち(しかし空母は打ちもらした)、ミッドウェイでは賭けに負けた、それだけのことにすぎない。失敗した真珠湾攻撃がミッドウェイ作戦であり、成功したミッドウェイ作戦が真珠湾攻撃なのだ。幸運と不運とが1回ずつで清算されただけの話である。
 
ミッドウェーの空母炎上の報を後方の戦艦大和上で次々と聞いても山本は「ほう、またやられたか」と言っただけで、まるでひとごとみたいに部下の参謀と趣味の将棋を指しつづけたという話も有名だ。山本英雄史観信奉者にとって都合の悪いこの証言は、山本を尊敬していた彼の従兵長のものなので信用に足る。これでは航空機主戦主義の先見者山本五十六の名に傷がついてしまう。仕方がない。実際には南方進攻のために不可欠の作戦ではないと認識されていたのだが、真珠湾攻撃のおかげで南方進攻はスムーズに行ったのであり、ミッドウェーの大敗のほうは南雲のせいにしておこう。何? 南雲は真珠湾は成功させてるじゃないかって? それはいけない。南雲は真珠湾では、第2次攻撃を行うことなく、さっさと現場から逃走したということにしておこう。実際には真珠湾攻撃は一撃離脱でまったく正解だったのである。6隻の主力空母とそのベテランパイロットたちは、戦争中には補充が見込めない虎の子であり、第2次攻撃は疲れ切った第1次攻撃隊の再出撃になるのだし、敵に5時間もの態勢立て直しの時間を与えるうえ、帰路は何も見えない暗闇の海上と夜間着艦になるのだから、追加戦果よりこちらのほうが致命傷を受けていたはずだからである。反復攻撃の進言は奇襲の成功を聞いた一部幹部が興奮して口にしたにすぎない。この誤解はニミッツの回想録の影響も大きい。ニミッツ真珠湾攻撃の不徹底を指摘したのは、この作戦、日本側も相当に間が抜けていた、ゆえに大した作戦でもなかった、むしろ神の御加護があったのはアメリカのほうであったという国内向けの宣伝だったにすぎない。オイルタンクが破壊されていたとしてもアメリカは当時、日本の740倍(!)も石油がとれたので、漸次、本土から運んで来ればいいだけなのだから。
 
その他山本には、真珠湾攻撃成功直後、意味もなく内地の艦隊を近海に町内一周させたり(ハワイの米残存艦隊が出てくるのを迎撃するつもりだったという説もある)、初の空母同士の対決となった珊瑚海海戦のデータ、戦訓を無視してミッドウェイ作戦に臨むとか、無口で部下にはっきりした指示を出した形跡がないなど、とても名将とは言えない不可解な采配、態度も多い。緒戦の機動部隊指揮官南雲忠一は山本の戦略的意図を理解しなかったと書いている本もたくさんあるが、山本のほうが明確な指示を出していないのである。ここらは敵のニミッツ大将とは大きな差である。「水から石油を作る事件」や、愛人に艦隊の出撃の日を手紙で漏らしていたことなどは山本神話信奉者にしてみれば「もう言わないで」的なものであろう。どちらかというと軍政面で優れていたと言われながら、作戦行動である真珠湾で評価されているところも齟齬のひとつだ。上記の艦隊町内一周などは、そうすることによって一周した将兵にも作戦参加のボーナスポイントがつくシステムだったので、山本が部下への恩情としてそうしたなどとも言われる。今度は恩情家山本。もうなんでもありである。
 
とはいっても、私の主眼は、山本五十六批判にあるのではない。生き残った人たちによって真珠湾攻撃は山本が「主犯」ということにされているのではないかということである。その意を酌んでいただければと思う。

明治天皇すり替えを隠すため元老は滅んだ

先の戦争は、軍部の暴走によるものだとよく言われる。しかし、なぜ軍部は暴走した、というか、勝手ができたのだろうか?

まず誰しもがあげるのが、かの悪名高き「統帥権の独立」であろう。つまり、日本の軍隊は天皇の所有物であり(軍艦に天皇家の紋章がついているのはこのため)、軍部の統帥権、すなわち「軍部に軍事行動を命令する権利」は天皇にのみある、とされていたことである。内閣に軍隊を動かす権利はなかったのだ。

とはいっても天皇が軍隊に直接命令することなども実はなかった。じっさいには、昭和になると軍部が軍部を勝手に動かしていたのである。軍部に命令できるただひとりの人、天皇が軍部に命令しないのであるから、軍部が軍部を動かすようになったのは当たり前であった。

ならば、昭和より前は誰が軍部を動かしていたのだろうか?

元老である。いや、軍部のみならず日本のすべてを動かしていたのが元老であった。

軍部を動かす権利は天皇のみにあるという体制になったのは、日本陸軍の父とされている元老、山縣有朋が自分の育てた軍部を、内閣という国民の代表の支配下に置かせたくなかったからだと言われている。これには政治と軍事を同時に握っていた武家支配の名残りもあったのだろう。しかしもっと重要なのは、軍隊が反乱、つまり自分たち支配者に向かってくることを恐れたからだと言われている。だから「天皇陛下にしか軍隊を動かす権利はないよ」ということにした。もっとはっきりいえば「軍隊を動かす権利は、元老(つかワシ)にしかないよ」ということである。完全な国家の私物化だが、一方で昭和より前に軍部が暴走しなかったのは、元老が軍部の手綱をにぎっていたからでもある。

ところが、軍部暴走の第一幕である満州事変が起こった1931年、元老は高齢の西園寺公望ひとりになっていた。もはや元老の力は過去のもの。そして西園寺が齢90で没した翌年に太平洋戦争が始まっている。つまり元老の力が弱まっために、軍部はその手綱を切って暴走しはじめた。そして元老の存在が消えたときに、決定的な戦争に突入してしまったのだといえるのだ。

それほど、元老というものは途方もない力を持っていたのである。いや、上述したことからも分かるように、はっきり言えば天皇より実質、上にいる存在だったのだ

しかし、晩年の西園寺公望は「元老は私で終わりだ」と言い、これからは内大臣がリーダーとなるべきであると考えていたらしい。しかし昭和になって元老が彼1人になってしまうと、軍部の青年将校が首相などを暗殺していき、軍部を動かす力も政治の実権も元老から軍部に移ってしまった。西園寺の考えは考えだけに終わった。

ならば、誰しもこう思うであろう。なぜ元老という最高統治機関を存続させなかったのかと。おそらく西園寺は、元老制度(元老は超法規的存在であり制度ではないのだが)を続けられないことをわかっていたのだ

その理由とは何か?

ここでヒントとなるのは、上述した「元老は実質、天皇の上にいた」という事実である。神たる天皇の上に人がいる! これ自体が矛盾である。なるほど、天皇は実質の政治は行わないので、天皇他にリーダーがいるというのは今でもそうだ。しかし元老は「他にいるリーダー」というような存在ではない。近代天皇制自体、元老の創造物なのだから、明らかに元老は天皇の上にいるのだ

ならば、西園寺たち元老は天皇の上にいる、その根拠をにぎっているが、その根拠とは元老以外に知られてはならないものであったのだと考えれば、近代日本を作った元老なるものが1代限りで終わったこととの辻褄があってこないか? 元老が天皇の上にいれる根拠とは何か。それは「あの話」ではなかったか。すなわち――

明治天皇はどこかから連れてきた、元老たちの傀儡、つまり替え玉であり、それは元老だけの秘密であったと

最後の元老、西園寺公望は元老の中でもっとも年少で、大日本帝国創設の志士でもないが、幼き頃、京都において、3つ年下である明治天皇の侍従であった。だから明治天皇がすり替えだったら分かっていたはずなのである。この秘密が今後、永遠に隠蔽され続けれなければいけないから、元老は一代限りで終わった、終わるしかなかったのではないか? 公家の西園寺が元老に組み込まれたのもそれゆえではなかったか。

もちろん私とて明治天皇がすり替えだという証拠などもってないが、こういう話がある。それはドイツ人医師ベルツの日記にある話なのだが、元老中の元老伊藤博文は、病弱な皇太子(のちの大正天皇)の結婚についての重臣会議のなかで、皇太子に生まれるのは不運だ、操り人形のように踊らされるものだからと発言すると同時に、操り人形のしぐさをしてみせたというのである。このエピソードなど、少なくとも伊藤が天皇家を自分より上の存在には見ていなかった証拠である気がする。今の首相がこんな素行を間違ってもやれるだろうか?

とまれ、以上が真相であったのなら、明治天皇すりかえという欺瞞はあまりに高くついたという他はない。

もっとも歴史上、天皇というのは、都が変わるたびに、血統も変わっていたと私には思えるのだが。

 

ニーチェの永劫回帰(永遠回帰)とはどういう思想なのか

 1.ニーチェの病気、発狂の正体

ニーチェは、45歳で発狂し、その後、正気に戻ることなく55歳で没した。少年時代からニーチェの体にはおかしいところがあった。頭痛、眼痛、めまい、吐き気の発作を繰り返して起こしていたのである。26歳で大学の正教授(!)になりながら、35歳で退職を余儀なくされ、以降、孤独な著述活動に専念することになったのも、その発作のゆえであった。

この病気は、少し前までは、梅毒による進行麻痺と目されていたが、最近では否定されている。では何であったのか?

もちろん私は医者ではないが、私は彼の病気は、すべて神経性、精神的なものと見る。

彼が著した思想は、キリスト教は人間を常識で縛ろうとする奴隷道徳だとし、生命の燃焼と彼方への意志を体現する超人(それは人間を超えるものというより、すごく人間であるという意味のほうが近い)の新しい道徳を説いたところにあるのだが、実は、その奴隷道徳に一番染まっているのが、彼自身だった。

ニーチェの父は牧師で、ニーチェ自らも少年時代は牧師を目指した。ニーチェは少年時代から大変マジメな人物だったという。この「マジメ」という意味は、既成道徳にちゃんと従っているという意味に解してよかろう。ところが、その既成道徳に従う屈辱を誰よりも抱いていたのも彼だったのだ。それが超人の思想を生んだわけだが、その既成道徳への反抗、いわば既成の自分への反抗が、彼の体にも異変を引き起こしてしまったのだ。

自分の肉体が信じている行動規範に、頭が反抗を企てるとき、体にまで異変が起こるということは、多くの人が体験していることあろう。ニーチェの場合、肉体の信じていることと、頭脳が命じることにとてつもない落差があった。そのため、その病状も人並み以上に激しいものとなる、果ては、発狂までしてしまった、と事実はそういうことではなかろうか。

ニーチェは「君の肉体を信じ、君の肉体に従い生きろ」と言うが、実際は、ニーチェ先生に言われなくとも肉体を軸に生きている人は大勢いるのである。ニーチェは「没落せよ」と言うが、こうすれば安全と頭では分かっているのに破滅の方向に生きてしまう人は案外多い。そもそも、「肉体に従う」生き方しか人間には畢竟できないのが事実だ。頭で考えて人生を生きていたら、それこそニーチェの厭う何の前進性もない人生となる。また、ニーチェは「人間において偉大な点は、彼自身が目的でなく、彼がひとつの橋である点にある」というが、多くの人がそのように生きている。つまり子供を作って死んでいく人生である。

だからある意味、ニーチェの言っている人生指針は、当たり前のことを述べているにすぎない。その言葉の啓発力はニーチェと同じ類の人にのみ意味があるだけなのである。実際、私には、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、マジメ青年に向けて書かれた「不良になろう!」本のように思えることがある。

マジメ、つまりは奴隷道徳が、彼の肉体まで侵食していたなら、結局、発狂しかその桎梏から抜け出す方法はなかったということなのかもしれない。彼は『ツァラトゥストラ』に「超人とは狂気である」とすでに言わせていたのである。

 

2.これが永劫回帰の真の意味だ!

ある日、「これがもしかしてニーチェの言う永劫回帰?」と感じた経験があるので、書いときます。

それは、この前、実家の押入れに眠っていた18歳~26歳のあいだの私自身の日記、というか、悩みやらグチをしたためたノートを読み返していたときのことだった。

まあ、そのノートに書かれた内容は、なーんの価値もないものである。実にくだらないことにオオゲサに悩んでいる。必要以上の自己卑下。一般論への逃避。逆恨み。などなど。並んでいる言葉は、今の私から見れば、苦悩というより、結局、行動、決断しないための言い訳にしか見えない。(実際、読んだ後、破って捨てた)

今の私なら、そのときの私に、こう言うだろう。「考え込んでも堂々巡りで終わる。決断すべし」と。

しかし、昔の私が、そんなアドバイスに耳を貸したか、つまり決断したか、行動したかははなはだ怪しい。

そもそも「決断」というものは追い詰められないとできないものだ。「決断」という言葉自体に「追い詰められて」というニュアンスがすでにある。つまり私はそのとき決断などしなかっただろう。私はやっぱり、このノートに書かれている私であっただろう。

そのときだ。これこそニーチェの言う『永劫回帰』なのではないか!? と思ったのだ。

ニーチェは言う。「私は何度も、何度でも永遠に繰り返してこの同じ人生に戻ってくるだろう」

これは、つまり何度、昔に戻れたとしても、結局、同じ人生を歩んでしまうだろうということと意味は同じである。

「何度、私は人生をやりなおしてみても、きっと同じ人生を歩むだろう」

これは多くの人が思ったことがあることではないか。そうなのだ。何度やり直しても、あなたの人生はきっと変わらない。あのとき、こうしてれば、ああしてればというのは、今となって思えることで、そのときに戻れば、きっと同じことである。そのときは、それがそれであったそれだけの全体的必然があってそうなったのだから。また、私が違う人生を歩んだなら、それはもう現在そう考えているところの私ではなくなってしまう。

「私は何度も、何度でも永遠に繰り返してこの同じ人生に戻ってくるだろう」

この考え方は、「永遠に」と言う意味で「人生は一度しかない」という「旅の恥は掻き捨て」のような考え方とは全く違う。また「過去は変えることができない」という過去を振り返るものとも異なる。人間の行動、存在はどの一点においても永遠である、絶対であるということを意味している。そう、私の人生は、これ以外なかったし、今もないのだ! 

ならばそれを否定しても何も始まらない。肯定するしかない。それも最高最強の形で!

 然り。人生が永劫に回帰するという『考え方』は、ニーチェが言うとおり、人生の最大の肯定の形式そのものなのである。本当に回帰するか否かという科学の話ではないのだ。

今の人生を肯定できるかできないかが問題なのであり、肯定するしか生に対する喜びも充実もないのであり、永劫回帰の思想とは、その肯定に向う最強の後押しの、信じるべき考え方ということなのだ。

神戸連続児童殺傷事件の真犯人~酒鬼薔薇は少年Aではない

神戸市で97年5月におきた神戸児童連続殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」については、酒鬼薔薇は逮捕された少年Aではないと一部では言われているが、この意見に私も賛成だ。以下その理由を申し上げる。

 まず何より単純な話、被害者の遺体の一部を中学校の校門前においたのは、最初に現場で目撃され犯人と目された、角刈り、長身でがっちりした体形の、何かを入れた黒いビニル袋をもった黒っぽい服の男、そいつであるとしか思えないからだ。

 少年Aは、真夜中の3時ごろに、被害者の遺体の一部を校門前において、その後、家に帰ったと自供したという。しかし早朝5時10分にそこをとおった新聞配達員の人は、そこには何もなかったと証言している。それだけではない。そのあと、最終的に警察に通報した人のほか、「まさか本物とは思わなかった」という目撃者が2人いるのだが、3者の証言では、それの置いてあった場所が、みな異なっているのだ。つまり何もなかったと証言した新聞配達員がとおってから、通報者が通報するまでの1時間半のあいだに、犯人は3回も置き場所を変えたのである。とにかく犯人はかなり長い間そこにいた。これだけで自白と話が違っている。しかも一度は高さ198センチの門塀の上に置かれているのだが、そこは少年Aの160センチの身長では届かないのだ。重さ5㎏のものをそこに置くなら少なくとも170㎝の身長が必要である。(背伸びして手いっぱい)

また少年Aの自白によれば、タンク山という場所で被害者を殺し、そこに遺体を隠し、そこでのち遺体も切断したという。しかしここは被害者の少年の捜索が開始されてから何度も捜索の人が来ているところなのである。死体を隠せる場所もないし、よし隠せても腐敗臭は防ぎきれまい。そこで切断するなど、とてもできたと思えないと多くの人が指摘している。

 対して、黒っぽい服の男は、遺体の一部が発見された当日の朝、道のまんなかを歩いているところ、および黒いビニル袋をもって植え込みにかがみこんでいるところ(!)が目撃されている。また同じ時刻、黒のブルーバードが校門前の敷地に乗りあげていたのも、幾人かのひとが証言している。のみならず、かがみこんでいる男を目撃した配送会社の運転手さんは、前々日の同時刻(被害者の少年が行方不明になった翌朝の早朝5時)ごろにも、2人組の不審な男が同じ道路上で、件の校門を遠くから監視するように見ているのを目撃している。これらの目撃証言はすべて事件発生直後の新聞に載ったもので、実際当初は、これが犯人だと目され、私自身も覚えているが、「犯人は30~40代の男」と報道されていたのである。しかしそのちょうど1か月後、少年Aが逮捕されて犯行を自白したと報道されると、この男の話はメディアから完全に消えてしまったのだ。

 人々はなぜこれほどまでにあからさまな不審人物をかんたんに忘れさってしまったのだろうか? それは「犯人は14歳の少年」という報道が、あまりにエキサイティングで刺激的だったからだ。人間は退屈な日常を破壊してくれる斬新なショックをこころの底で待望している。その刺激を享受するために、現実や理性的判断などよろこんで捨てるのである。人がニュース、新聞を読み聞きしたがるのも、世界の現況を把握しておきたいという現実的な情報収集のためというよりは、新しい刺激を常に得たいからというほうが本当だろう。NEWS、新聞とはよく言ったものである。

 しかしこの黒っぽい服の男は、植えこみにかくれることなどしたとはいえ、全体的に妙に堂々と行動している印象をうける。犯罪者が校門のまえに人間の体の一部を置くとなると、少年A の自白どおり深夜をえらぶだろう。太陽がのぼってから置きにいくのは危険すぎる。となると、犯人は誰かにそれを発見されるのを見届けたかったということが考えられる。だから、誰かが「ちゃんと」気づくように律儀に3度も置き場所を変えたのである。

この男が、あまり物怖じしていない様子なのは、仲間がいたからなのがひとつの理由ではあろう。前々日には2人で来ているのだから、当日も2人で来ていた可能性(ひとりは見張り)は高い。つまりこの犯行は、複数犯なのだ。のみならず、被害者の遺体の切断面は、少年Aが自白した糸ノコギリによるものと思えないほどまっすぐだったという。そもそも糸ノコギリで人間の首が切断できるなどとも思えず、冷凍して固めてから電動ノコギリで切ったのではないかとの見解まである。もしそれが事実なら、充実した設備やノウハウまで持っていることとなり、まるでそういった専門の請負業者の仕事、複数犯どころか、組織犯とも推測できる

 ここでまったく正直な感想を言わせてもらうと、その妙に律儀に思われる行動、角刈り、がっちりした体形、長身といった特徴ともあいまって、黒っぽい服の男は、犯罪者というより工作員といった印象を受ける。

一説には、殺人は少年Aのしわざにせよ、挑戦状と遺体切断、およびそれをわざわざ中学校の校門前においたのは、当局の権力強化のための自作自演だという説もある。こんな凶悪犯がいるのだからもっと警察に権限をあたえるべきだというわけだ。また東電OL事件など大問題に発展しかねかった問題を、この西でおこった衝撃的な猟奇事件によってかき消すか、薄めようとして企てられたなどとも言われている。あるいは2年前に起こった阪神淡路大震災が残した諸々の問題を、その当地でショッキングな事件を起こすことによって打ち消そうと企んだのだなどとも一部ではささやかれている。マスコミもこれで他に報道できる大義名分ニュースができて、忖度できるというわけだ。

しかし、被害者の少年の捜索願が出されたのが夜の8時であり、その9時間後の翌朝5時に、上記の2人組が目撃されているのだから、偶然起こった殺人事件をすぐ利用しようとした展開にしては、行動が早すぎよう。殺人犯が実は警察官の個人的犯罪だったとか(私は最初これが理由かと思った)、あるいは別の理由で当局としては犯人として公表できないような人物であり、だから他に犯人をでっちあげる必要が生じたという展開だったとしても早すぎる。むしろそれならこう考えたほうが理にかなっている。それは、殺人、遺体のさらし行為、挑戦状――すべて最初から、当局のしわざというものだ。

ここでまた多くの人が指摘している妙な点が思い出される。被害者の肉親が遺体と対面させられた場所が、警察の遺体安置室でなく、ガレージであったというところだ(これはその著書によれば被害者のご両親も妙に感じたようである)。警察はなぜおごそかに扱わなければならない被害者の遺体を遺体安置室に置かなかったのだろう? それは、自らグルになった罪で、誇り高き警察署の一室をけがすことなどできなかったからではないのか

警察に奇怪な挑戦状が送られてきたのも、もちろんシナリオどおりのことで、これは「警察vs犯罪者」の構図、つまり警察が犯人であるはずがないということを強調しておくためではなかったか。あの挑戦状について被害者の御父上はその著書で「最初にそれを読んだとき、漫画に深く親しんでいる10代の人間が書いたと思った」とご感想を漏らされているが、私は失礼ながらこの意見を奇異に思った。私の印象はまるで違う。あれはかなり文章を書き慣れている者の文章だ。あの文章は大学生でも相当文章慣れしていないと書けない。特にリズム感だ。あの持続のあるリズム感は相当、読み、そして書いている人間のものである。ほとんどプロのライターに近いと言ってもよい。確かに漫画の影響は感じられたが、1997年といえばもう30代の人間でも漫画を読んでいるのが普通の時代である。この「10代の人間の筆だと思った」という被害者の御父上の感想は、犯人はこの時点、少年Aとすでに「決まっていた」ので「そう書いてください」と出版者側がおしつけたか、あるいは出版者が勝手にそう書いて、そのまま出版したものではないか。失礼ながらこの本にはいくつかそう思われるようなところが散見される(もしそうならそれは、出版についてはまったくの素人であるご両親のせいではないのであるが)。被害者の少年を町の人々が捜索する段階で、被害者宅の電話番を頼まれた少年Aの母親が「たまごっち」をして遊んでいたというのも、少年Aを生んだ少年Aの一家はどこかおかしいと強く印象づけるための恣意的、不自然な描写のように私には思えた。ここだけ妙に事の輪郭がくっきりしていてかえってリアルさがない。まるで三文ミステリーのわざとらしい伏線のように感じたのだ。

また、あまり知られてないが、少年Aの家の隣家には、なぜか事件の前から警察官が入っていたことが週刊誌にすっぱ抜かれている(下記参考文献190頁)。またタンク山での遺体の発見者は警察官で、彼はその手柄で表彰されている。これらの事実はいったい何を意味しているのだろうか?

すべては当局のしわざ――。もしこれが本当なら、おそらく国家御用達の演出の専門組織、電通も噛んでいるのではないか。警察自体にはここまでの演出力はないからである。

この説に信ぴょう性を与えるのは、事件から25年経った現在においてもの、少年Aへの視線の集めさせ方の異常さだ。こんな残酷なことをした犯罪者の書いたものの出版など倫理的に許されてよいはずがなく、野放しなのは妙すぎると、なぜ誰も思わないのか。少年Aによるホームページの開設と来た日には、もう怒る、疑うより「はぁ?」で、少年Aなる存在を故意にアピールしてるとしか思えない。少年Aの親の手記の出版にしてもそうだ。なんでこの少年A一家はこんなに出版に意欲的なんだろう? よし出版社のほうが意欲的なのだとしても、なぜ少年Aも親も風当たりの強まる行為を承諾したのだろう? また、少年Aが逮捕されたとき、当局は記者会見で「容疑者を逮捕しました」ではなく「犯人を逮捕しました」と言っている。「われわれはもはや容疑をかけているのではない。こいつが正真正銘の犯人で決定なのだ」と言ったのだとしか思えないではないか。人々は相も変わらず、少年Aでゴハン3杯はいけるみたいに少年Aを楽しんでいるというか、乗せられているが。

しかし、14歳の少年を犯人にでっちあげて真相を隠蔽するというやりかたの最大のメリットは、その衝撃性で目くらましができることよりも、 少年の犯罪は裁判が行われず、また、どういう経緯で審判されたかも公開しなくて済むということだ。この事実にほとんどの人が注意を向けていない。事実、その著書によれば、被害者のご両親も審判経緯を知ることができていないらしい。

国家権力は何か大きな目そらしが必要になったら、子供のひとりやふたりを犠牲にするくらい平気でしてもふしぎでない(ならばおそらく選んだ基準があるのであろう)、と私は思うが。

 

※ 以下2022年10月20日追記

今日のニュースによれば、驚くべきことに(ある意味、やはりかであるが)この事件に関する裁判所の記録がすべて廃棄されたことが判明したそうである。そして廃棄された理由がなんと不明なのだ。かつこれらを管理する司法の頂点(のはずの)最高裁判所もこのことについてノーコメントとしているという。担当した家裁の判事は今年の2月になくなったそうである。また佐世保の小学生少女同士の殺人事件の資料も廃棄されてしまったのだという。これは神戸事件だけが廃棄されたのでは疑われるから、それゆえの目くらましで行われたのではあるまいか。管轄の異なる部署同士でともに廃棄されたなんて、申し合わせた、というか中央からの(つまりは最高裁判所からの)指示があったとしか思えないではないか。というより、神戸事件の記録など最初からなかったのが本当のところなのではないのか

※参考文献『真相 神戸市小学生惨殺遺棄事件』安倍治夫-監修 小林紀興-編 1998年 早稲田出版

 

日航123便はミサイルの近接爆発で垂直尾翼を失った

 1.123便垂直尾翼を破壊したのは近接爆発したミサイルである

1985年8月12日に起こった痛ましき日航123便の墜落については、公式見解である圧力隔壁の自壊ではなく、真の原因は、軍兵器の飛翔物体が空中衝突して垂直尾翼を破壊したのであり、その証拠を消すために最後、123便はミサイル攻撃で山間に墜落させられたのだという説が根強くある。これについてはたくさん本も出ているし、ネットでも多くの意見がみられるので、多くの人が周知であろう。
 
私もいくらか読ませてもらったが、公式見解はきわめて不可解である。下図がその公式見解の説明だ。異変が起こったのは羽田離陸12分後の高度7000mの高空。胴体尾部の圧力隔壁が自壊したことによって客室内(正確には与圧区画内)の空気が垂直尾翼の内側に吹き入り、その圧力によって垂直尾翼のほぼすべてが吹っ飛び、それによって123便は操縦不能となり迷走、群馬県の山中に墜落したというのである。
 

しかし妙なことに、高空での圧力隔壁の損壊があった場合に必ず起こる「客室内の急減圧」は、生存者の証言、およびボイスレコーダーによれば生じていないのだ。
 
高空飛行中に飛行機の外部ドア(これもいわば圧力隔壁)が開いて急減圧が客室にかかる事故は何度か起こっている。貨物室の搬入ドアが開いただけでも、上階の客室、操縦室まで、急減圧で暴風状態となり、物品は飛び、床がへこみ、鼓膜を壊されるほどの負圧がかかる。ましてや客室のドアがはずれたとなったら、シートベルトをしていない乗客は瞬時にそこから機外に放り出されてしまっている。(例:高度6700mで起こった1989年のユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故。貨物室ドアが脱落したために、急減圧で客室の床に穴があき、そこを通じて、シートベルトをしてなかった9人の乗客が機外に投げ出された)
 
これは小学校の理科レベルの話である。123便ではそのような急減圧は起こっていないのだから、垂直尾翼を内側から破壊するほどの大量の空気が客室内から瞬時に漏れたなどありえないと考えるのが自然、というか当然であろう。ということは、圧力隔壁の自壊などなかったのだ。当局は急減圧現象がなくても与圧空気漏れで垂直尾翼は破裂したのだ、あり得たことなのだと言い続けているようだが、専門用語と難解な計算式をうんざりするほど並べてわざと読めないようにしてるような説明書を出しているようでは、真の原因は知られたくないから隠していると勘繰られても仕方がないというものであろう。
 
では知られたくない真の原因とは何か? 垂直尾翼に爆弾が仕掛けられていたのでもない限り、原因は外から来たとしか考えられない。つまり別の飛行物体が、何か大きな力を123便垂直尾翼に加えたのである。
 
しかし何か飛行物体が「偶然に」垂直尾翼に衝突したとは考えにくい。なぜならちょっと考えればわかることだが、大空なる3次元で高速飛行する物体同士が「偶然」接触するなど、非常に可能性が低いからだ。
 
悲しむべきことに、旅客機同士の空中衝突事故は、歴史上幾度か起こっている。しかしこれは空路、飛ぶ高度というのが大体定められているために、管制塔からの指示が混線すると、同じ高さに飛んでしまったりするのが原因であることが多い。つまり要因があるのである。ならば、何か飛行物体が123便にぶつかったというなら、「要因」のあるものでなくてはならない。つまり、ぶつかってしまうだけの理由がある、言い換えれば、両者の距離をゼロとする蓋然性があった飛行物体ということである
 
ならば何より真っ先に思い浮かぶのはミサイルだ。なぜならミサイルには、両者の距離をゼロとする装置、つまり目標誘導装置がついているからである。目標誘導装置がついてないミサイルでも、それは目標に向けて発射されるものだからである。
 
この事件の頃はちょうどミサイル自身が誘導電波を発して目標となる飛行物体を追跡するアクティヴ・レーダー・ミサイルが開発されていたときである。それまではセミアクティヴ・レーダー方式といって、誘導電波は地上施設か、艦船から発されており、ミサイルには電波受信器と追跡装置だけがついていた。ミサイルに搭載できるほど小さな追跡用電波発信装置はまだ開発できてなかったからだ。
 
ミサイルなんか命中したらその時点でどんな飛行機でも粉々だろ、と思われるかもしれないが、実際は簡単にそうならない。なぜなら高速の飛翔物体に、より高速の小さな飛翔物体を3次元で直撃させるのは、誘導システムをもってしても困難で、実際の対空ミサイルは、目標に近づいたら近接信管で爆発させて相手にダメージを与えるという方法をとっているものがほとんどだからだ。そうしないと直撃しなかったミサイルは全部標的を通り過ぎて無駄になってしまう。近接爆発させるほうがいいわけだ。しかし近接爆発することができたならこれで一応「命中」なので、「命中」イコール撃墜とも限らないわけである。
 
『目標誘導(追尾)装置』と『近接信管』とは混同しないようにしていただきたい。近接信管は文字通り、目標(というか物体)に近づいたらミサイル、あるいは砲弾自身が発信する電波の返りで起爆する装置であり、追尾機能はなく、第2次世界大戦後半にはすでに開発されていたものである。それができるまでは、数をそろえて弾幕射撃のできる機関銃はさておき、高射砲は、発射後コンマ数秒、ある高さに達したところで砲弾を爆発させる時限信管を使ったものがほとんどで、飛行機を直撃して落とすものではなかった。そこで砲弾自体が電波を発して敵機を感知し、近づいたところで爆発させる近接信管――有名なアメリカのVT信管などが第2次世界大戦の後半に発明された。VT信管の開発には全米の3%にあたる物理学者が動員されたという。湾岸戦争で有名になったパトリオットミサイルなども、湾岸戦争まではこの近接爆発による破片弾頭攻撃の方式だった。
 
ゆえに、123便垂直尾翼を破壊した物、それ自体は、123便のうしろから発射され、その尾翼うしろ近くで近接爆発したミサイルである可能性が高い。近接信管の作動か、すでに遅かったわけだが危険を察知したミサイル発射者の自爆指示かのどちらかの理由で爆発したのだろう。(演習か、試験だったのなら、装薬の量は抑えられていた可能性はある)
 

 

ミサイルの近接爆発――これは、ボイスレコーダーや生存者の方の証言とも合致している。ボイスレコーダーによれば、ことのすべては、離陸12分後の相模湾上空高度7000m、約1秒ずれた2つの衝撃音から始まっている。2番目の音のほうは「メキメキ」あるいは「ベリベリ」といった何か大きなものがへしゃげるような音なので、これは垂直尾翼がもぎとられた音でほぼ間違いないと思われるが、肝心の最初の音――それは衝突音というより、もっとするどく、擬音で言えば「バヒューン」という感じで、爆発音のようなのである。
 
この衝撃音が発生したとき、機長のかたは「まずい。何か爆発したぞ」と叫んでいる。この機長のかたは元航空自衛隊パイロットなので衝突音と爆発音の区別など反射的につくのではあるまいか。ほぼ最後尾に座っていた生存者のかた(この方は日航の非番の搭乗員さん、昔風に言えばスチュワーデスさん)も、「バン」ではなく、「パーン」という高めのするどい音、耳を押さえたくなるような、すごく響く音、テレビドラマで刑事が拳銃を撃つような音が、背後上方から聞こえたと証言している。実際、最初の音はそのような音に聞こえる(なおこの音が発生する前触れは何もなかったとのことである。これだけでも圧力隔壁自壊説がウソであることが分かる)。
 
擬音表現には個人差があるが、「バンでなく高めのパーンという鋭い音」というのは資料性のある表現といえる。言うまでもなく拳銃も火薬を「爆発」させて発射するものだ。「大空のサムライ」などの著書で有名な零戦パイロット坂井三郎氏も、飛行中はエンジンとプロペラ音でほとんど何も聞こえないが、機関銃の射撃音だけは自機のものも敵機のものもはっきり聞こえると言っている。本土上空の空中戦でも高度7000mでの機関銃発射音は地上で聞こえたというほどである。それだけ火薬の爆発音というのはよく響くのだ。事実、この音は地上でも聞かれており、伊豆半島東岸の住民のかたが「ドーン」という爆発音のようなものを聞いたと証言している。
 
それに、もし垂直尾翼が内側からの空気圧により破裂したのなら、それこそ「バン」という金属板の振動音によるにぶい音になるのではないか。もっともそれ以前に、垂直尾翼は気密構造ではなく、外気と内部の空気圧が常に同じになるよう空気の抜ける構造になっているのだから、仮に内部に気圧が一気にかかったところで破裂するなんて思えない。せいぜい一角がやぶれ、そこから内部圧の空気はぬけて終わるだけだろう。
 
そもそも圧力隔壁から与圧空気が胴体尾部に漏れたところで一気に垂直尾翼に入るのかと言う話もある。ボーイング747垂直尾翼は、胴体と一体構造ではなく(つまりお互いの内部はがらんどうで通じているのではなく)、ユニット構造といい、プラモデルのようにあとから取り付けているのである。日本乗員組合連絡会議による事故調査委員会への反論文書によれば、胴体側の垂直尾翼取りつけ面は、胴体の外板がそのまま張られており、そこには点検マンホールと操作用配管のため以外の孔はあいていない。(下写真は同サイトより抜粋させていただきました。「点検用マンホール」と矢印されている穴の上に垂直尾翼ユニットが乗っかるわけである)
 

 

これでは与圧空気が一気に垂直尾翼内に入るとも思えないし、よし破裂させるほどの強い与圧空気が圧力隔壁からもれたとしても、まず吹っ飛んでしまうのは胴体尾部突端の補助エンジンのはずで、そして補助エンジンがとれたなら(実際とれている)、もう胴体尾部は外気にスケスケなわけだから、垂直尾翼内に与圧空気が入るわけがない。それを日本乗員組合連絡会議は言っているわけで、この反論のほうがもっともなのである。大きな孔があいているのは事故調査委員会の見解のほうこそと言うべきだろう。
 
しかし、ちまたの飛翔物体衝突説では、近接爆発のミサイルではなく、軍事演習用の無人標的機が垂直尾翼に衝突したのではないかという説が主流なようだ。しかし無人標的機はレーダーでその位置、動きを確認しながら、地上からリモートコントロールするのであり、飛んでいる飛行機に対してはわざとぶつけることすら至難であると思われる。よしぶつかったのだとしても、鋭いパーンという音にはならないだろう。垂直尾翼の真横から当たったなら(ほとんど考えられないが)多少音は鋭くなるかもしれないが、それでも、7000mも下の地上まで聞こえるような鋭い音になるなんて思えない。翼幅7㎝のジャンボジェット機の模型が、高さ10mのところに飛んでいるところをイメージしてみていただきたい。この場合、高さ1㎝か2㎝そこらの垂直尾翼に1㎝程度の無人標的機がぶつかって(あるいは内部からの空気圧で垂直尾翼が破裂したとして)10m下にいる身長2.5㎜の人間に聞こえるであろうか? しかし癇癪玉がそこで破裂したなら聞こえるだろう。
 
さらに、ミサイルの近接爆発があったと思われる証拠が今一つある。それは『日航123便 墜落の新事実』(青山透子著、河出文庫)という本に書かれた、静岡県藤枝市で超低空飛行をしている123便を見た女性の証言で(日没の7分ほど前)、それによると、123便の胴体の後方左下部、荷物室扉に近い部分に、4,5メートルほどもある赤かオレンジ色の円筒形、あるいは楕円形に見えるものがべったりとくっついているように見えたというものである。最初は火事かと思ったとのことで、証言者のかたも正確にどのような状態になってるかまでの把握はできておられないのだが、胴体のおなか側の話では、垂直尾翼への兵器衝突説を支持する者の捏造証言とは考えにくいし、ベッタリ赤い物が絆創膏のように張り付いていたように見えたというのだから作り話としては突拍子もなさすぎで、目撃されたこと自体は真実と見てさしつかえないかと思う。
 
では、これは何であったかというと、ミサイルの爆風により、日航機の機体腹側のグレーの塗装が剥げて銀色のジュラルミン外板(上記の写真ではプライマーをかけているのか赤銅色に近いが)がむき出しになり、それが夕日に映えてオレンジ色に見えたということではなかろうか?
 

 

同証言によれば、最初、垂直尾翼がギザギザしていたのでそれが煙に見え、その火元が腹部の「赤い色」かと思ったということである。証言者の方は「夕日が映っているようでもなく」と述べているが、ここだけジュラルミン地肌がむきだしになって鏡のようになっているとは思わなかっただけではないか。これも青山透子氏の『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社)という本からの抜粋だが、フライトデータレコーダーを解析したところによれば、やはり異常外力が123便垂直尾翼にはたらいたということで、しかもこの外力は左側から来たのだという(同書93頁)。これがミサイルの至近爆発のしわざなら、胴体の「左」側のどこかに痕跡が残ることは当然ありえよう。この地点では123便はほぼ真北に向かって飛行しているので、当然夕日は機体の左側を照らしている。同証言によれば123便は右斜めに傾いていたというので、なお胴体のハラを太陽に向けていた。すべて辻褄があう。
 
さらにこの証言によれば、123便をファントム機2機が追いかけていったという。このファントム機がまた謎なのだ。123便を2機の飛行機が追いかけていたというのは墜落地点の群馬県含めたくさんの証言があるのでまず事実だったと考えていいと思うが、この地点では異常事態発生のわずか11分後に目撃されているのだ。航空自衛隊基地からのスクランブル発進だったにしても早すぎるのである。ならばこれがミサイルを発射した張本人だったのではないか。
 
なお、この時刻、相模湾護衛艦「まつゆき」が試験航海中だったために「まつゆき」からミサイルが発射された説も言われているが、それなら「まつゆき」に乗っていた人間は、ミサイルが発射されたことを全員が知っているだろうから、その誰しもが「あのミサイルが日航機に当たったのではないか」と疑うであろう。そこまで良心にふたをする箝口令が徹底できてるとは、ちょっと信じがたい。ただミサイルが航空機から発射されたものであり、上述のセミアクティヴ誘導のための電波をまつゆきが123便方向に発していた可能性は考えられる。
 
どちらにせよ、この123便を追いかけるファントム機について、自衛隊が何も言及していないのは不可解である。自衛隊スクランブル発進は123便墜落の後だと言っているのだ。
 
ともあれ、ミサイルの近接爆発が真の原因なら、次には軍が、なんで羽田近くの民間航路区域でこんな危険なことをしていたのかという疑問が出る。この場合、むしろこう考えた方が納得がいく。それは、軍隊の方が民間機を勝手に利用したというものだ。
 
自衛隊機と全日空機が空中衝突した71年の雫石衝突事故なども、自衛隊機が全日空機の航路上に乗ってしまったために追突した(された)もので、そうなった原因は、自衛隊機が民間機を勝手に演習に利用したためだと一部ではささやかれている。飛行機が飛行機を攻撃するにはその真後ろにつく、すなわち相手と同じ飛行線上に乗るというのが定石だからである。つまりこれが雫石事故における『両者の距離のゼロになった蓋然性』と考えられるというわけだが、航空機に限らず、艦船などに対しても、照準ロックオンとか、軍が勝手に民間機、民間船を演習に利用するということはよくあるのだという指摘もよく耳にする。沖縄上空で、ニアミスと思えるくらい米軍機が接近してきたという話もよく聞く。ならば、最初から123便を敵の大型爆撃機と仮定して利用した可能性もあろう。するとミサイルの誤発射だったのか、それとももっと早くに自爆させるつもりが、ということだったのか、それとも演習、実験だったので弾頭に炸薬はわずかしか入れられてなかったにもかかわらず(あるいは自爆する分量だけ)、思った以上の破壊を招いてしまったということなのか。それとも最初から撃墜するつもりだったのか……。
 
一部では、アメリカのIBM社のライバルたる日本人技術者集団がこの123便には乗っており、それで米軍に撃墜されたということも言われている。だから圧力隔壁に一度修理がなされたこの747に乗ったときが選ばれた。そうしてアメリカはのちWindowsでパソコンの世界シェアを掌握することができたというのだ。これまた突拍子もない説に見えるが、正直、私は、圧力隔壁自壊説とちがい、これに反論する材料が「いくらなんでも」という感想以外にないので、保留せざるをえない。つまり、「最初から撃墜するつもりだった」可能性も考えられるということである。
 
どちらにせよ、ここらは人間のやること、あるいはヒューマン・エラーとしていくらでもありうる、考えられることであろうからこの辺でやめておきたい。
 
ただ物質的な話、相模湾上空で123便垂直尾翼を破壊したのが、至近位置で爆発(破裂)したミサイルだということだけは、ほぼ間違いないと思う。
 
 
2.自衛隊の不始末隠蔽説の理解しがたいこと
 
ちまたの『軍事飛行物体による垂直尾翼破壊説』では全体の経緯は次のように推測されているようだ。
 
123便に何か飛行物体をあててしまった自衛隊は、123便がどのような状態になったか確認するためにファントム機2機にスクランブルをかけて追わせた。そこで123便垂直尾翼が消失していることを知る。そこには証拠である飛行物体の断片も付着していた。このことがばれたら大変なことになる。そこで123便を乗客乗員もろとも粉々にしてしまおうと企図し、123便が必死の操縦で目指していた横田米軍基地への着陸を妨害し、群馬県の山間部のレタス畑に不時着するよう誘導した。実はこの場所は、自衛隊の特殊部隊の訓練場に近いのであった。そしてその場所に来た時、別のスクランブル発進機が、空対空ミサイルを発射し123便を撃墜した。(これは赤外線誘導でエンジンに直撃が可能だったと思われる。またこの場合パイロットは123便北朝鮮ソ連の大型爆撃機だということで撃墜命令を受けていた可能性がある)。123便の墜落位置は、偶然近くを飛行中だった米軍ヘリからの報告が米軍経由で日本政府にも入っていたはずだから最低でも墜落1時間後には分かっていたはずなのに、政府はその後、墜落場所を10時間も「特定できず」と報道したのみならず(もし本当だとしても10時間ってどれだけ無能なんだ?)、テレビのニュース速報にて「待機命令を無視して救助に行こうとした隊員を射殺」というデマニュースまで流して一般隊員にも足止めをかけ、その間に特殊部隊に飛行物体とミサイルの断片の回収と、生存者の毒ガスによる殺戮、および火炎放射器による証拠隠滅を行わせた。遺体は不思議なほど異常に焼けていたのだ。(もしそうなら多くの遺書もそのときに焼かれたであろう)。そして当初は男児含め7人と新聞でも発表された生存者は、何の説明もないまま、いつの間にか女性だけの4人に修正された……。
 
大体以上である。そこに自衛隊の特殊部隊の訓練地があるのかよく分からない話もあるが、墜落地点に近い妙義山のあたりが戦後、米軍の訓練場になるという話が出て地元民の反対運動があったことなど、私は何かの本で読んだことがある。
 
上記の説ではっきり変だと断言できるのは、生存者の数が変わったことだろう。男児含めた3人はどこに行ったのだろうか? 男の子は顔こそ出てないが救助されたところの写真まで新聞に出ていたのだ。私はこれに関する説明を何も聞いたことがない。
 
遺体の多くが異常なほど焼けていたというのも不思議な話だ。航空燃料が可燃物なのは当然のことだが、それほど遺体が焼けたということは燃料は十分に残っていたということであり、よし操縦不能になったのだとしても、もっと飛行は続けられていたはずだからである。
 
燃料に関してはもうひとつ不思議なことがある。747のような大型旅客機が国内線を飛ぶときは無駄に全体重量を増やして燃費が悪くならないように満タンにせず、主翼内タンクだけを使い、中央の胴体をまたぐセンタータンクは使わないようになっている。
 

 
これは、逆にセンタータンクにだけ燃料を入れると、胴体が重くなって揚力を生む主翼と胴体の結合部分に負担(剪断力)がかかってしまうためである。国際線で満タンにする場合もセンタータンクから使っていき、そのあと両翼のタンクを使う。つまり123便の墜落時に残っていた燃料は両翼内部にあったはずなのである。しかし墜落地点での延焼範囲はふしぎなことに、前部胴体の散らばったところ(つまり乗客がいたところ)が中心になっているのである。

 
ちなみに私も知っている人がひとりこの墜落でなくなっているが、やはり遺体は黒焦げで、ご家族が生前に故人の手形をとっていたためになんとか特定できたということであった。なお生存者は皆、後部胴体のところ(上図の左上)で発見されている。
 
また、現在youtubeなどで聞けるボイスレコーダーがカットされているものであることも、真相は公式見解とは異なるのではないかという疑いを強める材料となっている。乗員のプライバシーに差し障る部分はカットしているのだという話も聞いたことがあるが、垂直尾翼を失ってから墜落するまでの32分間、乗組員は何とかしようとただそれだけに必死だった。プライバシーにかかわるとしてカットしなければならないような会話が交わされていたなんてとても思えない。現在ボイスレコーダーの全録音の公開を求める運動が遺族の方たちによって行われているが、当局はボイスレコーダーを細工、でっちあげれる音声編集技術が確立するまで時間稼ぎをしているとも一部ではささやかれている。
 
あと、相模湾海底に眠る123便垂直尾翼が、引き揚げ可能の深さにありながら引き揚げて調査されないのも納得がいかない話である。むしろ疑われている内圧による破裂を証明する絶好のものではないか。520もの命が失われたのだから引き揚げて墜落理由を確定してしかるべきだと思うのだが。
 
さらに、仮に墜落場所がすぐに特定できなくても、群馬県と長野県の県境近くに墜落したということは推測できたのだから、即急にとにかく墜落地点探索を兼ねての空からの救助隊を出すべきだったのではないのかという疑義に対し、当局側が「夜間に山間に降下するのは二次災害の恐れがある」として決行しなかったと言ったというのも驚かせる。救助隊の方がケガしちゃうから明るくなるまで待ったというのだ。(というか、朝まで墜落位置は分からなかったんじゃないのか?)墜落地点に近い群馬県上野村消防団の人たちが「地元のわれわれなら夜間でも墜落地点まで行ける。すぐに救出活動に入るべきだ」と主張したのに、自衛隊に止められたという話もある。
 
しかし自衛隊の不始末隠蔽説についても、私にはひっかかることがいくつかある。
 
ひとつは、自衛隊の(私は自衛隊が真犯人とは断言できないので上記ではずっと、軍事飛行物体という表現を使った)判断、行動が早すぎることである。今言ったように、123便垂直尾翼を失ってから墜落するまでは、わずか32分間のできごとである。この間にこれだけの確認と準備、実行をしたとは、何につけ判断、行動開始でもたもたする日本のお上にしては異常な素早さだ。自衛隊機は24時間スクランブル待機しているのですぐに発進できるらしいが、それにしても出現が早すぎるし、特殊部隊の訓練場所に近いところを不時着指定して誘導し、証拠隠滅を狙うというのは、とっさの判断としては悪魔がかっている。もっとも短い時間しかなかったから、このような思い切り過ぎた異常な判断しかできなかったということなのかもしれず、むしろ当局が隠したかったのは、123便垂直尾翼を誤って破壊したことではなく、その後のあわてふためいてやってしまった「撃墜」という処置のほうだったということなのかもしれない。
 
次に123便を目撃した者が少なすぎる気がすることである。上述の藤枝市での女性の証言によれば、123便は少なくとも藤枝市付近では、低空飛行になっているのだが事故調査委員会の公式発表ではもっと高空を飛んでいたことになっている)、これはもっとたくさんの目撃者がいてもいい気がする。もちろんいないことはないのだが少ない。写真が撮られていてもおかしくないと思うのだが。しかし、件の女性も「見てはならないものを見てしまったような気がして」ということでなかば無意識に記憶から遠ざけ、30年も過ぎてから証言しているので、多くの人が半ば無意識に忘れようとしている、口をつぐんでいるということなのかもしれない。あるいは、ほぼ薄暮に近かったので、123便の外見の異常に気づいた人は少なかったのかもしれない。
 
また、管制当局のレーダー監視者などもファントム機の存在をレーダーで知っていたはずになるが、そこらからの証言もないのも変な話である。これは同じ穴の狢かもしれないし、やはり怖くて言えないのかもしれないし、もしかしたらすでに……。ともあれ、日航の整備マネージャーなど、いくらかの関係者が死に追い込まれたのは事実である。
 
また、闇夜の迫った人里遠い山間部とはいえ、誰が見ているかもしれないのに、よくミサイルなど発射させたなということがある。でもこれは、「飛行機が飛んで行ったあとから、流れ星のようなものが飛んでいくのが見えた」「飛行機が追いかけっこしてた」という目撃証言(この証言は当時の新聞に載った)があるので足がついているというべきか。あと飛行機が「火を噴いて」落ちていくのもたくさんの人に目撃されている。垂直尾翼の消失による操縦不能が墜落原因なら、火を噴く道理はあるまい。というか、これらはかなり決定的な証言ではなかろうか。
 
しかし私にとって何より理解しがたいのは、こんな行為をお上が本当に命令した、特殊部隊とはいえ実行した、ということだ。想像もつかない。「日本のお上は国民なんて国に奉仕すべき使い捨てロボットくらいにしか見ていない」などという発言をこのブログではばからずにしている私でさえそう思うのである。こんなことを同国人が同国人にできるなんて思えない(他国人でもやってはいけないが)。いくら日本人が組織優先主義だとはいえ、ここまでの大非道を犯して、自分たちの組織を守るなど信じられないのだ。実行した隊員たちにしてもそうだ。命令通りやるのが軍隊かもしれないが、こんな命令を実行したら、そのうち口封じに命を奪われかねないのだ。私は見てない資料なのだが、自衛隊員の自殺者公表数はこの墜落の翌年で異常に跳ねあがっているという。しかもこの年から5年前にさかのぼって突然自殺者数を発表するようになったのだという。それはこの事件に関係した多くの隊員の死、つまり口封じの抹殺を自殺と見せかけるためだと一部では言われている。
 
なるほど実は私の見方が甘いのかもしれない。私などが思っている以上に、日本のお上や組織至上主義者たちは非情非道、理解しがたい精神構造をしているのかもしれない。あるいは前述のように、単に(単に、で済ましてはいけないが)即座の対応に慌てたため、ここまでひどいことをやらかしてしまったのかもしれない。しかし、ミサイルは他国のものだったということも考えられないことではない。日本には米軍が駐屯しているのだから。むしろその場合の方が、ここまでやるのはありうることといえるだろう。ミサイルを当てたのが米軍だと日本国民が知ったらどうなるか考えてみていただきたい。真相はどんな手を使ってでも秘匿されなければならないと日本政府が考えても、「非道ではある」が、「不思議ではなくなる」のである。もっとも、だから米軍機がミサイルを撃ったとまでは言うつもりはない。ただその可能性はあるということだ。
 
以上、長々と書かせてもらったが、私の印象では、この日航123便墜落、関心のない人たちはともかく、興味を持った方のほとんどが(兵器説は陰謀論だと喚いている人も含めて)、国の公式見解である「圧力隔壁自壊説」はウソであり、真相は別にあることに気づいているように思われる。ただ「それが真相だ!」と思わず口を手にやってしまうような仮説が出てないのと(上述したが無人標的機が垂直尾翼に当たったというのは無理がありすぎる)、お上は必死に隠そうとしているようだし、なんだか真相をあばくと、かえってまずい事態になるんじゃないか、触らぬ神に祟りなしという日本人的な何となくの忖度とで、真相追及に積極的にならない、うっちゃってるだけのように思える。そしてネットには、公式見解以外の原因を「陰謀論」のひとことで片づけるオピニオン・スウィーパーとでもいうべき者があきらかに配されている。
 
しかし私はこの墜落、いずれ真相が分かると思っている。もうすぐ関係者も鬼籍に入るのもあるが、アメリカは50年たてば情報を公開する法律があるし、正直なところ事態は、消去法と帰納法で考えればそんなに難しい話ではないと思うからだ。
 
 

なぜ日本は変われないのか~結局アメリカのおかげで平和

 日本はなぜ変われないか? などと言うと、日本のどこを変えなければいけないのかなんて反対に訊かれそうである。今の日本は史上かつてないほど平和で豊かではないか。誰もそんな文句は言ってないではないかと。

いや文句はある。日本では個人が主体性の放棄を要求されすぎなことだ。主体性こそもっとも人間にとって大事なものと考える人間にとって、これは看過できない問題なのである。だから「日本はなぜ変われないか?」という問いは、「日本人が主体性を奪われて黙っているのはなぜか?」とも置き換えられる。なぜ日本人はこれほど従順、我慢しやすいのだろうか? 

もちろんそれで平和が守れるなら、誰だってすすんで我慢することにやぶさかではなくなろう。しかし、その国が平和であるかどうかは、国内だけの話では決まらない。対外的にも平和である必要がある。そして対外的な平和というものは、人民が我慢しているだけで得れるものではない。

ところが、今じっさいに日本は対外的にも平和だ。なぜだろう? 島国だから攻めこまれにくい。神風も吹く。だからか? 日本に恨みを持っていそうな国、狙っている国だって近くにいくつかとあるというのに。妙ではないか? どこからその対外的平和はころがりこんできたのか?

はっきり言おう。確かに島国であることもある。しかし日本が今、対外的にも平和である一番の理由(つまり日本人の抑圧が成功している大きなファクター)は、最近こそ、皆忘れかけているが、アメリカという世界最強国の軍隊が日本にいるからである。 

のみならずこの文脈で、日本が平和な、もっと決定打的な理由がある。それは、アメリカのオカゲで、一番戦争の起こる可能性の高い共産圏と自由主義圏との境界は、お隣の朝鮮半島の真ん中に引かれていることだ。このことが何より日本の「おらが国は平和」意識を不動のものとさせているのである。 

このラインがもし対馬海峡に引かれていたらどうなるか。これは現実にありえたことだ。朝鮮戦争は、北朝鮮が半島統一を目指して38度線を越え韓国に軍事侵攻したことで始まったが、実際に北朝鮮軍は半島をほぼ制圧しかけた、対馬海峡の手前まで来たのである。しかしアメリカを中心とした西側諸国が韓国に援軍を出し、逆に北朝鮮軍を中国国境まで追いつめると、今度は中国がうしろから北朝鮮への援軍として大量の兵を送りこみ、西側はその人海戦術の前にふたたび後退。結局元の38度線付近、現在の南北国境で手打ちが行われ、休戦となった。

 つまりこのときもアメリカは多国間の戦争に兵を派遣しているわけだが、なぜそうしたかといえば、単に東側の領土拡大を見過ごしにできなかったというだけではない。半島が東側に食われてしまえば、今度は日本が、つまり東アジアにおけるアメリカの勢力拠点が一気に危機にさらされてしまうからだ。 

対馬海峡で東西がにらみ合うことになれば、圧倒的に西側諸国が不利になる。言うまでもなくアメリカより東側諸国のほうがずっと距離的に日本に近い。兵を迅速におくりこめる。対してアメリカは日本を兵站の拠点にして朝鮮戦争を(ついでにいえばベトナム戦争も)戦ったわけだが、日本列島自体が戦場になったら直後の安全な兵站拠点がなくなってしまう。まさに背水の陣。アメリカ本土はもちろんハワイですら遠すぎるのだ。

 だから日本をアジアにおける長槍の先、最前線の不沈空母にしておきたいアメリカは、対馬海峡に東西分割のラインをおかせるわけには、絶対に、いかなかった。かといって、現在の中国と北朝鮮の国境にそれをおくのは、緩衝地帯がなくなるといういうことで、中国が断固として阻止しなくてはならなかった。かくて中国は参戦し、米中は現在の南北国境で手を打つことに合意したのである。 

これが、日本にとっても棚ボタだったのだ。歴史を振り返ってみれば、日本は文明開化以来、朝鮮半島を中国、ロシアといった大国からの侵略の緩衝地帯にしたがっていた。そしてまたアメリカもペリーを日本に派遣して以来、日本をアジアにおける拠点にしたがっていた。となると日本を確保していたいアメリカは、日本の防衛戦略をなぞらざるを得ない。かくて19世紀の日米それぞれの思惑は現在、実現し続けているというわけである。

 それに太平洋戦争で、またアメリカはひとつ、日本との同盟的関係を反故にしたくない、つまりは再度の敵に回したくない理由をつくってしまった。言うまでもなく原爆を投下したことである。日本はアメリカに対し核兵器を使用する精神的大義名分が、少なくとも、ほかの国よりはずっとあるのだ。だからアメリカは日本を敵=東側に取り込ませることは絶対にさせたくない。同時に日本に正式な軍隊も核兵器も持たせることもさせたくない。軍隊をいまだ駐屯させているのはそのためというのもあるのだ。

 この今の日米関係の構図が、日本の支配層に利したわけである。自国の安全が確保できるという以外に、その安全、平和に慣れきったところを利用して、国民を、統治に首を突っこむなんて考えすら及ばないほど受け身に教育してしまえたからだ

 そう、日本のお上は、国民が統治に首を突っ込んでくることを嫌がる。もっとはっきり言えば、国民が自分たちに向かって来ることを恐れている。それゆえに国は、最低限の物質は保証する一方で(ただし最低限だけだ)、「日本スゴイ」だの「日本という素晴らしい国で文句を言うのは間違っている」だの、寝ても覚めても言い続け、あるいはネット右翼を使って、中韓叩きに誘導するなど、国民の矛先が自分たちに向かないようにするのに余念がないのである。

 日本至上主義に見える自称保守派の政治家が、外国であるアメリカにへーこらするという現象の発生理由もここにある。もっとも、このへーこらにより自称保守派の政治家の日本至上主義は実は見せかけで、本当のところは単なる自分至上主義にすぎないことを証明してしまっているわけなのだが。

 また日本に野党が育たない、あるいは二大政党制にならないのもこれが理由だ。国民全体が大人しいということは、争いがないということであり、これでは与野党の二元対立で答えを出していくという体制が生まれるわけがない。何より経済・産業界がすべて自民党とだけつながっているという状況がこのことをより堅固なものにしている。つまり「お金」という現代人の生命線が自民党に独占されているので、政治精神が死んだ日本国民にとって政治とは金(収入)の問題だけとなり、結果、経済を掌握している自民党独裁の重力圏からは誰も逃れられないということになるわけである。よその地区の人間から見れば「なんであんなひどい人間が」というような者がいつまでも国会議員として当選するのもこれが理由である。 またそういうふうに選挙区を割り振っている。

つまり日本国民は、アメリカのおかげで平和であるところを利用したお上に、まんまと去勢されてしまい、それで人間としての主体性を失ったのである。 日々の糧、安全はもとより、すべてにおいて「勝ち取る」ことはなく「与えられて」ばかり。政府批判の仕方までも! こんなラクチンな世界ありますか? そして、このラクチンさに慣れてしまい、日本人は、自分で責任をとる行動は経済的損失(損)をともなうものであり、また精神的にも重荷にしか感じられないようになってしまった。だから、日本人はいつまでたっても主体性を奪還できないのである。 

私は、アメリカと同盟関係を結ぶことが悪いと言っているのではない。上記の地政学的見地からすると、現在これは必要なことに思う。そうではなくて、アメリカという後ろ盾があるから平和であることにつけこんで、お上が自分の支配に都合のいいことを国民に強制しまくっている、国民はやられすぎている、そこを変えなくてはならないと言っているのだ。そこまでゆずる必要はないと言っているのだ。 

主体性の欠如した平和は腐臭を発する。ゲーテファウストが数々の遍歴を経た最期に「止まれ、この瞬間よ、おまえこそが素晴らしい!」と叫んだ最高の瞬間とは、日々の自由と生活を戦って獲得しつづける人たちとともに生きることであったこともここで付言しておいてもよいだろう。そういった自覚を持ちつづけることはある意味、しんどいことでもあるが、そういう自覚がないことは虚しいことであり、また非常に危険でもあるのだ。

 そろそろ日本人は主体性を失っている必要がないこと、そして主体性を失っている危険性に気づくべきである。