たまきちの「真実とは私だ」

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ニーチェの永劫回帰(永遠回帰)とはどういう思想なのか

 1.ニーチェの病気、発狂の正体

ニーチェは、45歳で発狂し、その後、正気に戻ることなく55歳で没した。少年時代からニーチェの体にはおかしいところがあった。頭痛、眼痛、めまい、吐き気の発作を繰り返して起こしていたのである。26歳で大学の正教授(!)になりながら、35歳で退職を余儀なくされ、以降、孤独な著述活動に専念することになったのも、その発作のゆえであった。

この病気は、少し前までは、梅毒による進行麻痺と目されていたが、最近では否定されている。では何であったのか?

もちろん私は医者ではないが、私は彼の病気は、すべて神経性、精神的なものと見る。

彼が著した思想は、キリスト教は人間を常識で縛ろうとする奴隷道徳だとし、生命の燃焼と彼方への意志を体現する超人(それは人間を超えるものというより、すごく人間であるという意味のほうが近い)の新しい道徳を説いたところにあるのだが、実は、その奴隷道徳に一番染まっているのが、彼自身だった。

ニーチェの父は牧師で、ニーチェ自らも少年時代は牧師を目指した。ニーチェは少年時代から大変マジメな人物だったという。この「マジメ」という意味は、既成道徳にちゃんと従っているという意味に解してよかろう。ところが、その既成道徳に従う屈辱を誰よりも抱いていたのも彼だったのだ。それが超人の思想を生んだわけだが、その既成道徳への反抗、いわば既成の自分への反抗が、彼の体にも異変を引き起こしてしまったのだ。

自分の肉体が信じている行動規範に、頭が反抗を企てるとき、体にまで異変が起こるということは、多くの人が体験していることあろう。ニーチェの場合、肉体の信じていることと、頭脳が命じることにとてつもない落差があった。そのため、その病状も人並み以上に激しいものとなる、果ては、発狂までしてしまった、と事実はそういうことではなかろうか。

ニーチェは「君の肉体を信じ、君の肉体に従い生きろ」と言うが、実際は、ニーチェ先生に言われなくとも肉体を軸に生きている人は大勢いるのである。ニーチェは「没落せよ」と言うが、こうすれば安全と頭では分かっているのに破滅の方向に生きてしまう人は案外多い。そもそも、「肉体に従う」生き方しか人間には畢竟できないのが事実だ。頭で考えて人生を生きていたら、それこそニーチェの厭う何の前進性もない人生となる。また、ニーチェは「人間において偉大な点は、彼自身が目的でなく、彼がひとつの橋である点にある」というが、多くの人がそのように生きている。つまり子供を作って死んでいく人生である。

だからある意味、ニーチェの言っている人生指針は、当たり前のことを述べているにすぎない。その言葉の啓発力はニーチェと同じ類の人にのみ意味があるだけなのである。実際、私には、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、マジメ青年に向けて書かれた「不良になろう!」本のように思えることがある。

マジメ、つまりは奴隷道徳が、彼の肉体まで侵食していたなら、結局、発狂しかその桎梏から抜け出す方法はなかったということなのかもしれない。彼は『ツァラトゥストラ』に「超人とは狂気である」とすでに言わせていたのである。

 

2.これが永劫回帰の真の意味だ!

ある日、「これがもしかしてニーチェの言う永劫回帰?」と感じた経験があるので、書いときます。

それは、この前、実家の押入れに眠っていた18歳~26歳のあいだの私自身の日記、というか、悩みやらグチをしたためたノートを読み返していたときのことだった。

まあ、そのノートに書かれた内容は、なーんの価値もないものである。実にくだらないことにオオゲサに悩んでいる。必要以上の自己卑下。一般論への逃避。逆恨み。などなど。並んでいる言葉は、今の私から見れば、苦悩というより、結局、行動、決断しないための言い訳にしか見えない。(実際、読んだ後、破って捨てた)

今の私なら、そのときの私に、こう言うだろう。「考え込んでも堂々巡りで終わる。決断すべし」と。

しかし、昔の私が、そんなアドバイスに耳を貸したか、つまり決断したか、行動したかははなはだ怪しい。

そもそも「決断」というものは追い詰められないとできないものだ。「決断」という言葉自体に「追い詰められて」というニュアンスがすでにある。つまり私はそのとき決断などしなかっただろう。私はやっぱり、このノートに書かれている私であっただろう。

そのときだ。これこそニーチェの言う『永劫回帰』なのではないか!? と思ったのだ。

ニーチェは言う。「私は何度も、何度でも永遠に繰り返してこの同じ人生に戻ってくるだろう」

これは、つまり何度、昔に戻れたとしても、結局、同じ人生を歩んでしまうだろうということと意味は同じである。

「何度、私は人生をやりなおしてみても、きっと同じ人生を歩むだろう」

これは多くの人が思ったことがあることではないか。そうなのだ。何度やり直しても、あなたの人生はきっと変わらない。あのとき、こうしてれば、ああしてればというのは、今となって思えることで、そのときに戻れば、きっと同じことである。そのときは、それがそれであったそれだけの全体的必然があってそうなったのだから。また、私が違う人生を歩んだなら、それはもう現在そう考えているところの私ではなくなってしまう。

「私は何度も、何度でも永遠に繰り返してこの同じ人生に戻ってくるだろう」

この考え方は、「永遠に」と言う意味で「人生は一度しかない」という「旅の恥は掻き捨て」のような考え方とは全く違う。また「過去は変えることができない」という過去を振り返るものとも異なる。人間の行動、存在はどの一点においても永遠である、絶対であるということを意味している。そう、私の人生は、これ以外なかったし、今もないのだ! 

ならばそれを否定しても何も始まらない。肯定するしかない。それも最高最強の形で!

 然り。人生が永劫に回帰するという『考え方』は、ニーチェが言うとおり、人生の最大の肯定の形式そのものなのである。本当に回帰するか否かという科学の話ではないのだ。

今の人生を肯定できるかできないかが問題なのであり、肯定するしか生に対する喜びも充実もないのであり、永劫回帰の思想とは、その肯定に向う最強の後押しの、信じるべき考え方ということなのだ。