たまきちの「真実とは私だ」

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神戸連続児童殺傷事件の真犯人~酒鬼薔薇は少年Aではない

神戸市で97年5月におきた神戸児童連続殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」については、酒鬼薔薇は逮捕された少年Aではないと一部では言われているが、この意見に私も賛成だ。以下その理由を申し上げる。

 まず何より単純な話、被害者の遺体の一部を中学校の校門前においたのは、最初に現場で目撃され犯人と目された、角刈り、長身でがっちりした体形の、何かを入れた黒いビニル袋をもった黒っぽい服の男、そいつであるとしか思えないからだ。

 少年Aは、真夜中の3時ごろに、被害者の遺体の一部を校門前において、その後、家に帰ったと自供したという。しかし早朝5時10分にそこをとおった新聞配達員の人は、そこには何もなかったと証言している。それだけではない。そのあと、最終的に警察に通報した人のほか、「まさか本物とは思わなかった」という目撃者が2人いるのだが、3者の証言では、それの置いてあった場所が、みな異なっているのだ。つまり何もなかったと証言した新聞配達員がとおってから、通報者が通報するまでの1時間半のあいだに、犯人は3回も置き場所を変えたのである。とにかく犯人はかなり長い間そこにいた。これだけで自白と話が違っている。しかも一度は高さ198センチの門塀の上に置かれているのだが、そこは少年Aの160センチの身長では届かないのだ。重さ5㎏のものをそこに置くなら少なくとも170㎝の身長が必要である。(背伸びして手いっぱい)

また少年Aの自白によれば、タンク山という場所で被害者を殺し、そこに遺体を隠し、そこでのち遺体も切断したという。しかしここは被害者の少年の捜索が開始されてから何度も捜索の人が来ているところなのである。死体を隠せる場所もないし、よし隠せても腐敗臭は防ぎきれまい。そこで切断するなど、とてもできたと思えないと多くの人が指摘している。

 対して、黒っぽい服の男は、遺体の一部が発見された当日の朝、道のまんなかを歩いているところ、および黒いビニル袋をもって植え込みにかがみこんでいるところ(!)が目撃されている。また同じ時刻、黒のブルーバードが校門前の敷地に乗りあげていたのも、幾人かのひとが証言している。のみならず、かがみこんでいる男を目撃した配送会社の運転手さんは、前々日の同時刻(被害者の少年が行方不明になった翌朝の早朝5時)ごろにも、2人組の不審な男が同じ道路上で、件の校門を遠くから監視するように見ているのを目撃している。これらの目撃証言はすべて事件発生直後の新聞に載ったもので、実際当初は、これが犯人だと目され、私自身も覚えているが、「犯人は30~40代の男」と報道されていたのである。しかしそのちょうど1か月後、少年Aが逮捕されて犯行を自白したと報道されると、この男の話はメディアから完全に消えてしまったのだ。

 人々はなぜこれほどまでにあからさまな不審人物をかんたんに忘れさってしまったのだろうか? それは「犯人は14歳の少年」という報道が、あまりにエキサイティングで刺激的だったからだ。人間は退屈な日常を破壊してくれる斬新なショックをこころの底で待望している。その刺激を享受するために、現実や理性的判断などよろこんで捨てるのである。人がニュース、新聞を読み聞きしたがるのも、世界の現況を把握しておきたいという現実的な情報収集のためというよりは、新しい刺激を常に得たいからというほうが本当だろう。NEWS、新聞とはよく言ったものである。

 しかしこの黒っぽい服の男は、植えこみにかくれることなどしたとはいえ、全体的に妙に堂々と行動している印象をうける。犯罪者が校門のまえに人間の体の一部を置くとなると、少年A の自白どおり深夜をえらぶだろう。太陽がのぼってから置きにいくのは危険すぎる。となると、犯人は誰かにそれを発見されるのを見届けたかったということが考えられる。だから、誰かが「ちゃんと」気づくように律儀に3度も置き場所を変えたのである。

この男が、あまり物怖じしていない様子なのは、仲間がいたからなのがひとつの理由ではあろう。前々日には2人で来ているのだから、当日も2人で来ていた可能性(ひとりは見張り)は高い。つまりこの犯行は、複数犯なのだ。のみならず、被害者の遺体の切断面は、少年Aが自白した糸ノコギリによるものと思えないほどまっすぐだったという。そもそも糸ノコギリで人間の首が切断できるなどとも思えず、冷凍して固めてから電動ノコギリで切ったのではないかとの見解まである。もしそれが事実なら、充実した設備やノウハウまで持っていることとなり、まるでそういった専門の請負業者の仕事、複数犯どころか、組織犯とも推測できる

 ここでまったく正直な感想を言わせてもらうと、その妙に律儀に思われる行動、角刈り、がっちりした体形、長身といった特徴ともあいまって、黒っぽい服の男は、犯罪者というより工作員といった印象を受ける。

一説には、殺人は少年Aのしわざにせよ、挑戦状と遺体切断、およびそれをわざわざ中学校の校門前においたのは、当局の権力強化のための自作自演だという説もある。こんな凶悪犯がいるのだからもっと警察に権限をあたえるべきだというわけだ。また東電OL事件など大問題に発展しかねかった問題を、この西でおこった衝撃的な猟奇事件によってかき消すか、薄めようとして企てられたなどとも言われている。あるいは2年前に起こった阪神淡路大震災が残した諸々の問題を、その当地でショッキングな事件を起こすことによって打ち消そうと企んだのだなどとも一部ではささやかれている。マスコミもこれで他に報道できる大義名分ニュースができて、忖度できるというわけだ。

しかし、被害者の少年の捜索願が出されたのが夜の8時であり、その9時間後の翌朝5時に、上記の2人組が目撃されているのだから、偶然起こった殺人事件をすぐ利用しようとした展開にしては、行動が早すぎよう。殺人犯が実は警察官の個人的犯罪だったとか(私は最初これが理由かと思った)、あるいは別の理由で当局としては犯人として公表できないような人物であり、だから他に犯人をでっちあげる必要が生じたという展開だったとしても早すぎる。むしろそれならこう考えたほうが理にかなっている。それは、殺人、遺体のさらし行為、挑戦状――すべて最初から、当局のしわざというものだ。

ここでまた多くの人が指摘している妙な点が思い出される。被害者の肉親が遺体と対面させられた場所が、警察の遺体安置室でなく、ガレージであったというところだ(これはその著書によれば被害者のご両親も妙に感じたようである)。警察はなぜおごそかに扱わなければならない被害者の遺体を遺体安置室に置かなかったのだろう? それは、自らグルになった罪で、誇り高き警察署の一室をけがすことなどできなかったからではないのか

警察に奇怪な挑戦状が送られてきたのも、もちろんシナリオどおりのことで、これは「警察vs犯罪者」の構図、つまり警察が犯人であるはずがないということを強調しておくためではなかったか。あの挑戦状について被害者の御父上はその著書で「最初にそれを読んだとき、漫画に深く親しんでいる10代の人間が書いたと思った」とご感想を漏らされているが、私は失礼ながらこの意見を奇異に思った。私の印象はまるで違う。あれはかなり文章を書き慣れている者の文章だ。あの文章は大学生でも相当文章慣れしていないと書けない。特にリズム感だ。あの持続のあるリズム感は相当、読み、そして書いている人間のものである。ほとんどプロのライターに近いと言ってもよい。確かに漫画の影響は感じられたが、1997年といえばもう30代の人間でも漫画を読んでいるのが普通の時代である。この「10代の人間の筆だと思った」という被害者の御父上の感想は、犯人はこの時点、少年Aとすでに「決まっていた」ので「そう書いてください」と出版者側がおしつけたか、あるいは出版者が勝手にそう書いて、そのまま出版したものではないか。失礼ながらこの本にはいくつかそう思われるようなところが散見される(もしそうならそれは、出版についてはまったくの素人であるご両親のせいではないのであるが)。被害者の少年を町の人々が捜索する段階で、被害者宅の電話番を頼まれた少年Aの母親が「たまごっち」をして遊んでいたというのも、少年Aを生んだ少年Aの一家はどこかおかしいと強く印象づけるための恣意的、不自然な描写のように私には思えた。ここだけ妙に事の輪郭がくっきりしていてかえってリアルさがない。まるで三文ミステリーのわざとらしい伏線のように感じたのだ。

また、あまり知られてないが、少年Aの家の隣家には、なぜか事件の前から警察官が入っていたことが週刊誌にすっぱ抜かれている(下記参考文献190頁)。またタンク山での遺体の発見者は警察官で、彼はその手柄で表彰されている。これらの事実はいったい何を意味しているのだろうか?

すべては当局のしわざ――。もしこれが本当なら、おそらく国家御用達の演出の専門組織、電通も噛んでいるのではないか。警察自体にはここまでの演出力はないからである。

この説に信ぴょう性を与えるのは、事件から25年経った現在においてもの、少年Aへの視線の集めさせ方の異常さだ。こんな残酷なことをした犯罪者の書いたものの出版など倫理的に許されてよいはずがなく、野放しなのは妙すぎると、なぜ誰も思わないのか。少年Aによるホームページの開設と来た日には、もう怒る、疑うより「はぁ?」で、少年Aなる存在を故意にアピールしてるとしか思えない。少年Aの親の手記の出版にしてもそうだ。なんでこの少年A一家はこんなに出版に意欲的なんだろう? よし出版社のほうが意欲的なのだとしても、なぜ少年Aも親も風当たりの強まる行為を承諾したのだろう? また、少年Aが逮捕されたとき、当局は記者会見で「容疑者を逮捕しました」ではなく「犯人を逮捕しました」と言っている。「われわれはもはや容疑をかけているのではない。こいつが正真正銘の犯人で決定なのだ」と言ったのだとしか思えないではないか。人々は相も変わらず、少年Aでゴハン3杯はいけるみたいに少年Aを楽しんでいるというか、乗せられているが。

しかし、14歳の少年を犯人にでっちあげて真相を隠蔽するというやりかたの最大のメリットは、その衝撃性で目くらましができることよりも、 少年の犯罪は裁判が行われず、また、どういう経緯で審判されたかも公開しなくて済むということだ。この事実にほとんどの人が注意を向けていない。事実、その著書によれば、被害者のご両親も審判経緯を知ることができていないらしい。

国家権力は何か大きな目そらしが必要になったら、子供のひとりやふたりを犠牲にするくらい平気でしてもふしぎでない(ならばおそらく選んだ基準があるのであろう)、と私は思うが。

 

※ 以下2022年10月20日追記

今日のニュースによれば、驚くべきことに(ある意味、やはりかであるが)この事件に関する裁判所の記録がすべて廃棄されたことが判明したそうである。そして廃棄された理由がなんと不明なのだ。かつこれらを管理する司法の頂点(のはずの)最高裁判所もこのことについてノーコメントとしているという。担当した家裁の判事は今年の2月になくなったそうである。また佐世保の小学生少女同士の殺人事件の資料も廃棄されてしまったのだという。これは神戸事件だけが廃棄されたのでは疑われるから、それゆえの目くらましで行われたのではあるまいか。管轄の異なる部署同士でともに廃棄されたなんて、申し合わせた、というか中央からの(つまりは最高裁判所からの)指示があったとしか思えないではないか。というより、神戸事件の記録など最初からなかったのが本当のところなのではないのか

※参考文献『真相 神戸市小学生惨殺遺棄事件』安倍治夫-監修 小林紀興-編 1998年 早稲田出版