たまきちの「真実はこうだ!」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku×kvp.biglobe.ne.jpです(×は@です。迷惑メール防止のため))。

日本が真珠湾攻撃をした本当の理由

なぜ今さら「日本が真珠湾攻撃をした真の理由」などをここに書いておきたくなったかというと、あまりに、「真珠湾攻撃は、日本の本命作戦たる南方占領作戦(石油確保のための)を米艦隊に邪魔させないようにするために行われた」という誤認識が広まっているからだ。偉そうに言いつつ、実は私もそう思い込んでいたときがあったのだが。

この理由は一見、非常に理にかなっているように見える。聞けば「なるほど」と多くの人が納得してしまうだろう。しかし当たり前のことだが、その行動についてもっとも理にかなって見える理由が、史実としてその行動を起こした理由だったとは限らないのである。また実際に真珠湾攻撃の意義を南進支援だと認識していた海軍幹部もいたのは事実だが、命令を受けた実行者がそう認識していたということは、決定者もまたそう考えて決定したのだということを意味してはいない。これも当然のこと。そして何より「理にかなって見える」ことは、本当に「理にかなってる」ことともまた別である。

実際、この南進支援説は、当時の海軍首脳の口にはほとんどのぼっていない。真珠湾攻撃の発案者たる山本五十六連合艦隊司令長官などが残している言葉にしても(なお真珠湾攻撃は海軍単独の作戦である)、「開戦いきなりの大打撃を敵に与え、米国民の士気をつぶしてしまうのだ」とか「南方進攻中に米艦隊に日本本土を襲わせるわけにはいかない」とかで、「真珠湾奇襲をしないと南方進攻などおぼつかん」とは言ってはいないのである。(米国民の士気をつぶすことによって大東亜共栄圏を完成させることができるという意味のことは言っているが)

むしろこのことが出されたのは、山本の部下と軍令部の参謀、すなわち、艦隊(現場部隊)の参謀と中央指揮組織の参謀のあいだで真珠湾攻撃の是非が言い争われた場でであった。つまり推進派である現場部隊のほうは、「真珠湾を叩いておかないとおちおちと南方作戦もできん」といい、反対派の軍令部のほうは「真珠湾を叩かなくとも、マーシャル諸島などがあるゆえ、米艦隊は容易に遠く東南アジアまで進出してはこれない。ゆえに、途中でバレて奇襲が失敗に終わるのみならず、こちらのほうが打撃を受ける可能性があり、さらには当日敵主力艦がいるという保証もない真珠湾作戦などやる必要性はほとんどない」と反論したのである。(

)これは論理的にも、結果的にも後者が正しかった。実際、艦隊側はこれを論破できなかったし、事実的にも、真珠湾で撃破できたのは、速度21ノットしか出ない旧式戦艦4隻だけで、高速空母のほうは近くの島に飛行機を運んでいたので叩けなかった。これら米の旧式戦艦は日本の扶桑型よりも鈍足で、無事であっても日本の南進に対し何もできなかっただろう。無傷だった高速空母にしても、日本軍の南方進攻中は、マーシャル諸島やせいぜいラバウルに軽い一撃離脱攻撃を加えることしかできなかったのだから、「真珠湾攻撃が行われたから日本の南方作戦はうまくいった」わけでもなかったわけである。つまり、現場部隊側が並べた真珠湾攻撃をやるべき理由は「どうしてもやる」という前提での強弁という側面が強いと言わざるを得ないのだ。実際、彼らが「絶対にやるべきだ」と譲らなかったので、軍令部も折れざるを得なくなり、真珠湾攻撃は決定されたのである。

そもそも是が非でもやらなければいけない作戦なら、軍令部のほうから立案して艦隊側に下令していたはずだ。もちろん、開戦いきなりの奇襲をかけるのは大きな戦果が見込めるのだから戦いのセオリーだし、それがこれからのあらゆる作戦をスムーズに行かせる補助となるのも当然のことである。しかし、その作戦が危険な賭けだとしたら、やるべきかやらぬべきかの天秤にかけられる。そして真珠湾の場合は、上述の通り、やらぬほうが理屈としてはまさっていた。少なくとも「南進のために」という理由は推進派の強力な論理武装とはならなかった。ゆえに、史実として、明らかに南進支援は真珠湾攻撃をやった真の理由ではない。これを真珠湾攻撃の理由とするのは完全に誤認識なのである。

では、このようなやらずもがなの危険な作戦をやった理由、艦隊側が「やる」といってきかなかった真の理由は何だったのかというと、ここから先は推測とならざるを得ない。上述の山本五十六の言葉にしてもとても納得しがたいもので、同じく「やる」が前提の後付け理由にしか見えないからだ。ならばこれ以上、資料をまさぐってもムダで、状況や当時の日本軍人の心理から推測するしかないし、推測のほうが有効である。ちゃんと目的言語化(文書化)して理由を述べられなかったということは、結局、心理的な理由のはずだからだ。

で、推測してみるが、これはそれほど難しく考えずとも直感でわかる。もう海軍の現場部隊の気持ちは、戦争ハイモードになっていたということだ。日中戦争はすでに4年も前に始まっていたとはいえ、それはほとんど陸軍の戦争であり、海軍は航空隊が参加してはいたものの、軍艦の出る幕はまったくなかった。つまり対米戦争は、海軍が日本海海戦以来、36年ぶりに行う海戦、久々にスポットライトを浴びる大舞台だった。しかもまちがいなく日中戦争以上の、いや、日本開国史上最大の戦いになるものであった。それがゆえに頭がテンパっていたし、また、テンパる必要を特に現場部隊が如実に感じていた。そういうことだと思われる。

これには加えて、アメリカという大国相手だったからこそ余計に闇雲に突撃していったというのもあるかもしれない。また山本が言ったように1年しか有利には戦えないがゆえにいきなり賭けに出たというのもあったのかもしれない。が、おそらくは同規模の相手、また長期に同等の戦いができるにしても、やはりこの奇襲は行われたと思われる。つまりは、未曽有の大戦がためにもう興奮状態になって、今手の内にある最新の武器(6隻の高速空母)を最大限に利用した大胆な作戦をやりたくてしょうがなくなってしまったという単純な理由が本当なのだと思う。作戦の失敗の可能性など目に入らなくなったことも、この理由なら納得がいこう。

つまりは、ほとんど子供の喧嘩の勢いづけゲーマー的ハイな気分。実際、「日本の本命作戦たる南方占領作戦を米艦隊に邪魔させないようにするため」という「一見大人なロジック」が流布しているのも、それゆえではないか。真の理由は実に単純な子供っぽいものであったこと。誰もそんなことでこんな重大な行動を決定するなんて信じられないし、信じたくもないのだ。しかし寺山修司が言ったように、戦争というものは畢竟「子供の戦争ごっこ」と同じなのが本当ではないか。

                         2026.4.1

 

ネット右翼の正体~イジメと共通するその執拗さ

私にとって、ネット右翼ほど不思議なものはない。私の周囲には、ネット右翼みたいなことを言う人間は誰ひとりとしていないし、私個人もネット右翼のような心情は持っていない。だから、いったい誰が何の目的でネット右翼をしているのか、想像もつかないのである。

当初は、国がまたぞろ国民に愛国心を植えつけんと躍起になっているのだと思った。が、ネット右翼の言っていることには、日本礼讃の面は薄く、中韓の誹謗にばかり終始しているため、どうやらそうではないと考え直した。しかし、中韓の悪口を標榜するとなると、いよいよそれに何のメリットがあるのか理解できない。

それが、ここ最近、出版されたネット右翼に関する本や、いろいろ見聞を重ねていると、なんとなく像が浮かび上がってきた。

どうも、ネット右翼というのは、自分たちは会社のため、国のために尽くしたのに、あとから来た中韓がいいとこどりをして伸びてきて、簡単に日本に並んだ、日本の脅威になった、そういうことで、いわば中韓が自分の人生を意味ないものにしてしまった、それがために中韓を恨むことに決めた、それを攻撃することで鬱憤晴らしをすると決めたと、そういう人種らしいのである。

確かにそう考えると、辻褄があう部分がたくさんある。

まず、「中韓はずるいこと、虫のいいことばかりしている」というのが、ネット右翼の最大のお題目なわけだが、これは、中韓が、日本含めた先進国の成果から出発できたがゆえに、急速に伸びることができたという話と符合している。

またネット右翼は「左翼」という言葉をよく使う(揶揄してパヨクともよくいう)。自分たちが「右翼」と呼ばれるものだから、それに対する反撃で「左翼」という言葉を使うのだろうが、私の感覚では、1985年ソ連が崩壊したときに20歳以下だった人間、およびそれ以降に生まれた人間は「左翼」という言葉は、知識で知っていても、ほとんど使わない。もう物心がついて政治意識が芽生えたとき「左翼」は実体として存在していなかったからだ。右翼という言葉のほうは街宣車が走っているので使い続けたが。ということは、おそらくネット右翼というのは高齢者である。実際、高齢となった親がネット右翼になったという話がここ数年になって多く出てきた。本も数冊出ている。(

)ところで、そういった本をみると、ネット右翼というのは、案外とマジメに生きてきた人が多いようだ。ネット上で有名なあるネット右翼に会いに行った人は、そのネット右翼が孤独がゆえにひねくれて、ネット右翼になったのだと想像して会いに行ったのだが、相手の家に実際に行くと(ただしインターホン口で追い返された)、ちゃんと結婚して子供もおり、普通の家であったとの由。おそらくは外見も普通の人なのだろう。

しかしこういうマジメ人がネット右翼の実像ならば、彼らの中韓誹謗の執拗さ、そしてネットでのみ、それを言うことも、かえって納得しやすいものになってくる。つまり、マジメな人だけに、他人(他国)の悪口は顔と名を出しては言いにくい。そこで匿名であるネットでそれを言う。そういう理屈が見えてくるからである。

しかし、自分の人生を価値ないものにしてくれた恨みだとしても、ネット右翼のはこびりかたは異常な気がする。いや、むしろ、しょうもないことに執心しているだけに、中韓への呪詛が本心なのではなく、もうひとつ別のファクターがその動機の中心としてあるのではないかという気がする。それは何か? 私は、中学生のイジメにも似た、「この相手を恒常的な攻撃の対象とすると決めた」という心的メカニズムがそれではないかと思うのである。

そう、「決めた」ということ。いじめにしても、ある子が憎くてしょうがないというより、あるときに、その子を今後の攻撃の対象と「決めた」がために、執拗ないやがらせとなり、また周囲にも影響を与え、エスカレートしていくのではないのか? いわば、くじ引きで「決めた」人身御供みたいなもの。人身御供だって、人々の精神安定のために行われたものである。ネット右翼も同様に中韓を誹謗することによって会社や国に自分の若さを使いすぎたという悔恨を慰めようと「決めた」のではないのか?

もしそうならば、本当に彼らが糾弾せねばならないのはむしろ中韓ではなく、皮肉なことに自国、日本のほうなのが本当となるだろう。学校でいじめを行う生徒の本当の不満の根源が「学校」であり「国」であるのと同じように。しかし彼らの年齢ではもう手遅れなのだ。あとは中韓誹謗にしがみつづけるしかない。ネット右翼の中韓誹謗の執拗さはここに根があるのではなかろうか。

とここまで書いたものの、冒頭に申し上げたように、私には、ネット右翼がなぜ、ああいうことを言い続けるのか、直感的には、まったくわからないのが本当のところなのである。これは、私は人の悪口など言わない人間だと言うことではない。ネット右翼の件に関しては、本当に本心でわからないのだ。だから以上のこともまったくの推測外れかもしれない。

 

日本人は「こわがり」すぎ~選択制夫婦別姓

夫婦別姓、私は、この話題になると非常に奇異に感じることがある。それは、反対している人が意図的、感覚的問わず「これからはすべての夫婦が別姓になる」というふうに受け取ってるように見えることだ。「選択制夫婦別姓」なのだが。

どちらにせよ、私には、自由選択制度にこれだけ反発するのは、日本人の「こわがり」さの反映に思える。日本人は、全体が大きなものに一律に律されていないと、社会秩序が壊れるとすぐに不安になってしまうのだ。

この日本人の警報センサーの超敏感さ、そしてすぐに騒ぎだす体質は、今後も変わることはないだろう。というのも、日本人は、畢竟それが「いいこと」だと信じているからである。「義務」いや「使命」とすら考えている。それは日本を守ろうとすることだ。自分たちを守らんとすることだ。なんで悪いことであろうか?

しかし本当に「いいこと」なのだろうか。この考えは、ともすれば「自分の安全さえ保証されればいい」というエゴイズムに堕しかねないものである。

いや、日本人はそれがエゴイズムであることを知っているのかもしれない。だから、それは正しいことなのだと自分に言い聞かせるために「✕✕国は日本を侵略しようとしている」とか、「日本人は特殊である」とか言い出すのではないか。こういう弁明も「こわがり」の特徴だ。

恐怖心というのは、上述したとおり「危機を事前察知するセンサー」であり、人間が生きていく上で必要なものだ。しかし、「必要以上にこわがる」と「こわがり」と呼ばれる。どこまでが「必要」というのは難しい話だが、「そうすることにより『本来の目的』が阻害されるほどこわがってしまう」のを「必要以上」といっていいだろう。そして人間においての『本来の目的』とは、喜ばしい、あるいは、充実した生をおくることではないのか。(

)日本人の「こわがり」度はそれを阻害するまでに至っていやしないか。もっとも、日本人は、喜ばしい、充実した生をおくることを人生の目的とは考えていないのかもしれないけど。

 

太平洋戦争・開戦の判断基準は「大日本帝国」の看板をおろすか否かだった

なぜ日本はアメリカとの戦争を避けることができなかったのだろうか? 

この疑問の核心は、おそらく次の部分にあるのだろう。

負けると分かっている戦争はやめておこうという至極かんたんな現実的判断がなぜできなかったか

個人、特に若者であれば、ときによっては「プライド」やら「意地」で、負けると分かっている喧嘩をやることはある。しかし、いやしくも当時すでにして先進国であり、優れた頭脳を持つ人間たちをトップに立てていた国家が、なぜにして、国力にして10倍、科学技術力も工業生産力も、資源も人口も上回る国と戦争するという理屈にあわない判断をしたのか。

もちろん、未来は不確定なのだから「絶対に」負けると決まっているわけではない。また当時、皆が、はっきりと「負けると分かっていた」わけでもない。むしろ一般国民のレベルでは、「アメリカ人は贅沢に慣れて惰弱であり、物をたくさん持っているだけにすぎぬ。開闢以来不敗の神国たる日本が負けるわけがない」という教育、喧伝がなされていた時代だけに、そのとおりに考える者は多くいた。少なくとも、アメリカに完敗したことを史実として知っている現代日本人と比べると、アメリカの力を低く見積もっていたところが多分にあった。

しかし、政府のほうはさすがに情報も持っていたし、アメリカとやるのはまずいと考えていた。快進撃を続けるドイツが、ソ連に勝ち、返す刀でイギリスを斬れば、残る枢軸国側の大敵はアメリカだけだ。が、それが希望的観測にすぎぬことも承知されていた。アメリカに勝てる根拠がほとんどないことは、アメリカを仮想敵国とし、アメリカの強さを分かり抜いていた海軍はもちろん、「アメリカは大陸から兵を引けというが、そんなことは絶対できん」と言い張り続ける陸軍にしても、開戦の9か月前には戦備課で国力による比較検討をして同じ結論を導き出していた。他の閣僚たちの不安は言わずもがな。だから不思議なわけだ。彼らは何を考えて開戦を決めたのか?() 

)陸軍が「絶対引かぬ」と言い張り続けるのであれば、アメリカは石油の禁輸を解かないので、日本は東南アジアの油田を力で奪いに行くしかなくなる。そうなればアメリカと戦争だ。これも分かっていた。ならば陸軍がおかしかったんじゃないかといいたくなるが、ことはそう簡単ではない。確かに軍部には戦争をしたがる血の気の多い者らがいたが、陸軍は、対米戦の主役となる海軍が「アメリカに勝てる見込みはない」というなら、大陸から兵を引いてもいいと考えていたのである。これは、それなら、陸軍は己がメンツを傷つけぬまま、「引く」ことができるという計算からだったが、ともあれ陸軍は、アメリカとやるかやらぬかはその先鋒となる海軍が最終的に決めることだと考えていたのである。海を隔てての敵なのだからこれはある意味正しかった。

ところが海軍は、「勝てる見込みはない」とついに発言することはなく(1939年、第2次世界大戦が始まる直前に、時の米内海相が、日本海軍は英米海軍と戦えるようには整備されていないと発言しているがそれが最後だった)、1941年6月、ドイツがソ連に攻め込んだあたりから、やるなら物がある今しかないと言いはじめたのであった。それは、陸軍と同じくメンツ、そして同じく若手中堅の血気もあったが、ドイツに呼応してソ連を挟み撃ちにしよう(いわゆる北進論)という意見に抵抗するためでもあった。ソ連に攻め込んだら、アメリカが参戦することが見込まれた。そうなったら南北2正面戦争だ。海軍は南、つまり対米戦のほうが主になるが、北に戦争資源(特にこの場合は鉄)をさかれてはとてもアメリカと戦うことなどおぼつかない。だから海軍としては、「やる」なら南進、すなわち対米戦に限定してもらわないと困るというわけだ。

また海軍には、零戦、戦艦大和、そして米海軍の数を超える空母など、質としては当時、世界最高クラスの新兵器がそろったこと、アメリカは中立法の影響で戦争準備が遅れていて、太平洋に限れば日本海軍のほうが現戦力では上回ったということもあった。また、「アメリカと戦争になるかも」ということで戦争準備をしているうちに(出師準備といい、かなり大掛かりなもの)、士気、いわば戦争したさが高まってしまっていたのもあった。さらには、日本海海戦以来35年も海戦をしておらず、陸軍の大陸での暴れっぷりを見ながらフラストレーションがたまっていたこともあったかもしれない(航空部隊などは日中戦争に参加していたが)。しかしそれでも、優位に戦えるのは、せいぜい1年くらいの話で、2年後にアメリカがその国力を発揮した軍備をそろえてくるのは、海軍自身が一番分かっていたことであった。つまり陸軍のみならず、海軍「も」おかしかったわけである。「引く」と言わぬ陸軍。「勝てぬ」と言わぬ海軍。

当時、そういった陸軍、海軍、それぞれの言い分を統括して判断する人間、最高意思決定の部署があればよかった。ところが、五・一五事件や二・二六事件という軍部のテロリズムを経たのちの日本には軍部に物申せる者はいなくなってしまい、首相も、武力拡大主義に追従するだけとなっていた。「準備とタイミングがあるのだから、やるならやると早く決めてもらなければ困る」という統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)の発言は、専門部署としての本音でもあったろうが、もはやこれに対し「統帥部としてはそうだろうが、それをしてやるかやらぬかを決めるのは本末転倒である」と抑えれる人間などいなくなっていたのだ。そもそもこのとき、首相が国家意志決定のまとめ役だったとしても、国民に対し、「アメリカとのっぴきならぬ関係に陥ってしまいましたが、太平洋の平和のために、大東亜共栄圏構想の実現は今回は見送り、大陸から兵を引くことによって、またアメリカに石油を売ってもらうようにします」と言えたかどうか。ここまで、指導者側が国民に対し、強い日本となるための我慢と犠牲を強い(すでに日中戦争の段階で、国家総動員法、大政翼賛会での統制、食料配給制などは始まっていた)、日本は神国、日本軍は強いなどというほか、外国とことあるごとに向こうのほうが悪いと言い続けてきたのである。対米開戦前も「交渉、アメリカ誠意なし」と新聞に書かせ続けていた。ここにきて「アメリカの条件を飲んで戦争は避けます」などと言えば、今までのは全部何だったのか。黙っていないのは血の気の多い連中ばかりではなかっただろう。

国民にごまかしをし続け、それが習慣となってしまったがために、筋の通った説明ができなくなった。ということは、当時の日本は、指導者層と国民は、政治システムでもって有機的につながっておらず、お互いを制御する相関関係になかったということを意味する。すなわち、外見上は選挙の行われる近代国家であったが、内実は、指導者層が国民をトップダウンで支配する封建国家にすぎなかったということである。このことが対米戦を避けるロジックを展開できぬネックになったのだ。

可視化された政治が行われていれば、国民は、納得したかはさておき、少なくとも説明を聞く姿勢は見せただろうし、支配者側も上記の現実的な説明を行うことをためらうことはなかったであろう。また、逆に名実ともに封建国家であれば、国民にことを極秘にしたまま戦争を強制することもできたのかもしれない。が、かたちの上では近代国家なのだから、新聞ほか、いろいろな情報媒体もすでにある。もう国民に対して、ことを黙っていることも、また国民側からの声を無視することも不可能になっていた。すなわち国民のほうも、郵便投書などを使って、刹那的な強気の態度を匿名のまま、いい気になって無責任に表明できた。この「いい気さ」には、日本が島国で対外戦争による戦禍を受けたことがほとんどないことも与かっていただろう。しかし責任を負わない民主主義などないのだ。いわば、日本は近代国家としてニセモノだったがゆえに、対米戦を避けるという合理的判断がとれなかったのである

そうであれば、問題は次に移る。なぜ、日本はこんな統治形態の国になってしまったかだ。これは、それほど考え込むことではない。幕末、日本は欧米列強の圧迫を受け、強制的に開国、そして不平等条約を結ばされるという屈辱を受け、彼らに対抗せんと、急速に近代化(欧米化)を進めた。ここに根元があったとたいていの人が思い至るだろう。

明治開化のとき、明治元勲たちは、国民を巻き込んでの国造りの議論などせず、自由民権運動を圧迫しながら、一方的に国づくりを進めて行った。ここで日本はもう近代国家になるための条件を落としていたのだ。欧米の文化もとりいれたが、国としての方向性は富国強兵。すなわち「強い日本」になること。それは「大日本帝国」というスゴイ名前に象徴されていた。それは世界覇権帝国という意味ととってもあながち間違いでもない名称だ。「世界」がいきなり大げさすぎるなら、まずはアジア覇権帝国! どちらにせよ、そうあることは日本の野望、悲願であり、そして悲願はすべからく達成されなくてはならぬ。いってみれば、対米戦をやるかやらぬかの判断基準は「勝てるか勝てないか」ではなく、「大日本帝国の看板をここで下ろすか下ろさないか」「覇権帝国たる野望をここであきらめるかあきらめないか」「かつてアメリカに受けた屈辱のそそぎをここでやるかやらないか」にあったのだ。日本は世界一(まずはアジアの盟主)であるべきだからアメリカとも戦うべきである。それに、ここで引くことは、黒船のときに続き、またも戦わずしてアメリカに屈すること、再び、あの屈辱をなめること、明治開化以来の努力のすべてが水の泡、元の木阿弥となることだ。そんなことは絶対にあってはならぬッ!!

こうして、アメリカとやればほぼ負けるだろうから、彼との戦争はやめておこうという現実に基づく判断よりも、日本は欧米に負けぬ世界の強国でなければならぬのだから、アメリカと戦ってこれを打ち破られねばならないという理想(非現実的)に基づく判断のほうが採られてしまったのだ

あとは、南方の油田地帯を占領してしまえば長期戦を遂行することができるという予測データやら(実際には戦争後半になると日本の輸送船は次々と米潜水艦に沈められ石油は日本に来なくなった)、彼我の物量差は大和魂で埋められるなどの「やれる」見通しを並べて、最後の反対派を黙らせるだけだった。もっとも反対派も「アメリカとはまずいんじゃないか」と考えていただけで、日本の拡大については肯定していたので、あまり黙らせるのに労力も要らなかった。

現実をしっかりと見据えるのではなく、「こうあらねばならない」「こうあってほしい」という希望的観測で行動を決めてしまうのは、鎖国で外国(いわば外にある現実)との交流・かけひきを拒み続けてきた日本人が自ら培ってしまった悪癖である。アメリカ兵より日本兵のほうが強いなどという思い込みも、何ら現実的根拠のない信念にすぎない。

とはいうものの、明治時代までは、まだそれほど日本の判断は、非現実的なものではなかった。アメリカの要求に従い開国したのも、アメリカには勝てぬと判断したからだし、大国ロシアとの戦争なども、ロシアが朝鮮半島を狙いだしたので、それを阻止するというむしろ防衛的な目的で行われたものだ。たしかに朝鮮半島を自分のものと考えるのは日本のエゴイズムであるが、イギリスの支援などもあったし、判断自体はそれほど現実から遊離していない。ところが、昭和の戦争となると、満州事変にしても日華事変にしても、火急の、あるいは計画的な目的などはなく、まさに暴走、ただ拡大のための拡大のような戦争となってしまうのである。すでに言ったように、悪いのは向こうであるという説明が国民にはなされた。

なぜそうなったか。それはすでに申し上げたように、合理的な損得計算の判断を下す国家の意志決定の中枢がなくなってしまったためだ。明治までは元勲たちがその役割をになっていた。ところが、元勲たちの「合理性」には限界があった。一番まずかったのは、自分たちがいなくなったあとにも、日本という国家が機能し続ける「合理」的システムを築けなかったことである。元勲が衰退すると、次にリーダーとなるかと思われた首相は次々と、「日本のことを考えてない」、「私腹を肥やしているだけだ」、「統帥権(軍を動かす権利として天皇にのみあると大日本帝国憲法では定められていた)を干犯している」などと非難され、右翼主義者や軍の青年将校に暗殺されていき、首相職は有名無実のものとなってしまったの。

なぜそんな口実をつけられての首相暗殺が横行したかの理由ももう申し上げた。「武力的に強い国としてある」、かつ「欧米列強の下位に位置づけられていた屈辱から逃れたい」というのが日本の国是、悲願になってしまっていたからだ。国民にしてみれば、そのために我慢を強いられてきたのである。日本は島国で、支配者による一元化、一丸化の圧迫からは、物理的にも、精神伝統的にも逃げにくいため(それゆえアジアでもっともすばやく欧米化もできたのだが)、国民は自由を得ることを諦めて、その圧迫の根拠、すなわち「強い日本であれ」「欧米を追い越せ、打ち倒せ」という方向でその我慢の鬱憤を爆発させやすい。さしずめ首相暗殺は、その爆発のひとつなのであった。いわば「強い日本であれ(領土拡大)」ということが、日本の方針であるべきと決まっており、国民はそのために我慢と努力を重ねてきたのだから、今さら、避戦方向に国をもって行くという判断をする指導者、政治家など不要、というか、むしろ邪魔だということで首相はあやめられていったのだ。

さらに、支配者側にしてみれば、そのように国民を抑圧してきたのは自分たちであるがゆえ、国民のそういった攻撃性が自分たちに向くこと、すなわち、暗殺も含めて、弱腰批判、民間クーデターなどを恐れるようになってしまい、より強く「強い日本であるという国是」の方向で物事を進めだすこととなってしまった。そうなると、理性的な制御装置の確立は、いよいよなされなくなる。もはや大日本帝国を統べるものは、「強い日本であれ」という国是であり、「強さ」を担う軍部となる。軍部、すなわち戦争屋のやり方でものごとのすべてを解決する国となる

これでおしまいだ。軍部の中堅幹部には、「勝てるか勝てないか」などは二の次で、「とにかくやるのだ」で凝り固まっていた者もいたらしい。戦争とは基本、若者がやるものである。中堅エリート幹部。彼らこそが、日本を戦争に向かわせた1番の具体的勢力、戦争に向かう力をもっとも顕現した人間であり、現場を実際に支配している軍部の実体でもあった。中堅層は名前が表に出てこず、責任も責任感もあまりないので、かえって好き勝手ができ、その若いパワーで上層部をつきあげることもできた。このような者らが何も掣肘されることなく跋扈する国となってしまっては「戦争ごっこ」のように戦争が開始されてもおかしくないというものであろう。しかし、これは、彼らに責任があったということではない。近代軍隊を作った限り、誰かが彼らとなったはずだからである。近代軍の軍人はみな官僚なので結局、個人の自由意志的存在ではなく、全体の中での匿名的存在なのがその本質だからである。

このように意志決定の政治中枢がなく、戦争ゲーム屋が牛耳る国となったので、満州事変を皮切りに再びはじまった領土拡大は、無制限、無統制のものとなったのだった。そして無制限の拡大を続けていけば、地球はひとつなのだから、やがて世界最強国とバッティングしてしまうのも当然のことであった。そしてこともあろうに、その最強国との交渉中に、南部仏印進駐というさらなる拡大行為を行い、とうとう「日本の東南アジア支配の野望はもはや明らか(実際日本はそう計画していた)」と当の相手に石油の禁輸を食らってしまったのだった。前年の北部仏印進駐でアメリカに屑鉄等の禁輸措置をうけた時点で、新聞には「次は石油か」と書かれていたくらいなので、南部仏印進駐は戦争をするための確信犯行為でやったという説もあるが、たとえそうでなかったのだとしても、即座に「待った」をかけ、「今のはナシ」と言うこともまた、上でみたとおり「強い日本であれ」との国是(とそれを象徴する強硬派)と、国民に対するメンツとにはさまれて口に出せないものとなっていた。かくて日本は、引き続き、無制限の拡大方向の道をそのまま進んでいったのであった。

無制限の拡大を続ける、それは攻め続けるということである。日本の昭和の戦争はひたすら「攻め続ける」「突撃し続ける」ばかりであった。それは対米戦初戦の真珠湾攻撃もそうであったが、アメリカに押し返され敗北が決定的となったときも日本軍がとり続けた道であった。すなわち特攻に万歳突撃である。最後に計画されていた本土決戦ですら「これは防衛ではなく攻撃である」と要綱案に書かれていたのである。アメリカと戦争すること自体が特攻のようなものであったからこうなるのは必然であった。

以上をまとめると、冒頭の「なぜ負けると分かっている戦争はやめておこうという至極かんたんな現実的判断がなぜできなかったか」の理由は、外国は敵だと自閉していた引きこもりが外国による強制開国という屈辱を受け、それを晴らすために「強い日本」であろうと領土拡大を開始したが、その勢いが国政における制御装置をも存在せしめなくしたためということになるだろうか。さらに単純化すれば、強い日本であることを証明するために、世界最強国相手との戦いも辞さず向かって行ったともいえる。

となれば、原因の「核」は、冒頭で述べた個人の場合と同じく「プライド」「意地」ということになるのだろう。特に日本は島国であることをいいことに、自分たちだけで閉じこもり、プライドを純粋培養してきた過去を持っている。ゆえにそれは他国より、より強烈なものとなってしまった。そういう意味では、「自閉性」こそが、対米戦を避け得させなかった究極の原因ともいえるだろう。

しかし日本人のこのような性癖は自己分析でコントロールが可能になるものでもある。そして今後われわれはそうしなければならないはずである。だが、一元化、一丸化、軍隊的制度や抑圧教育、国家意思決定の中枢の欠如などはいまだ続いている。それは結局、戦後も「強い日本であり続けるという国是」が「武力によって」から「経済力によって」に代わっただけで、生きながらえてしまったからだろう。昨今の「日本スゴイ」も結局のところ「日本強い」のヴァリエーションにしか見えない。そしてまた、国民が、匿名のままいい気になって強気の意見を責任も背負わずに放言することもネットによって日常茶飯事になっている。

日本人はいまだ、「強い日本であり続ける」という強迫観念から解放されていない。

 

ミッドウェイ海戦大敗の1番の根本原因

1日にして主力空母4隻を喪失し、太平洋戦争のターニングポイントとなったミッドウェー海戦。それは、今後とも第3次ペルシア戦争と並んで世界の戦史本に記され続けるだろう優勢側の歴史的「大敗」だったが、その大敗の1番の要因は何だったのだろうか? いろいろ敗因はあげられているのだが。私がこれを気にするのは、ミッドウェイの大敗に、日本人の一番の弱点が現れたと直感するからである。

暗号を読まれて米空母に待ち伏せされたことでないことは確かだ。なぜなら、日本海軍は、米空母の待ち伏せを織り込んだうえで作戦を進めていたからである。つまり、事前の図上演習において、ミッドウェイ島奇襲中に米空母があらわれ、逆にこちらが奇襲を受けるという展開となったために、奇襲当日は、対空母索敵の実施と第2次攻撃隊は対空母待機という手を打っていた。この図演における米空母があらわれるという根拠は、サイパン島を日本艦隊が出撃するところを米潜水艦に発見されれば、米空母はハワイから、こちらの奇襲当日に間にあうように出てこれるという見当からのものだったようだが、どちらにせよ、米空母が出てくる可能性は考えられていたわけだから「まさか暗号を読まれていたとは」というのは言い訳にはならないわけである。

では、大敗した1番の理由は何だったのか?

現場レベルでの大敗の理由は、空母機動部隊が第2次攻撃隊を出せなかったことに尽きる。すでに言ったように、日本の空母機動部隊は、ミッドウェイ島へ第1次攻撃隊を出すと同時に、敵空母が出てくる可能性を慮り、索敵機を東海域に飛ばし、第2次攻撃隊は対艦兵備で待機させていた。ところが索敵機が米空母を発見する前に、第1次攻撃隊から、「戦果不十分、第2次攻撃を要す」との連絡が入ったため、「どうやら米空母は来てないようだ」と見切りをつけ、第2次攻撃隊にミッドウェイ島(対地)攻撃の装備をさせはじめた。そのときに索敵機から「敵艦隊発見」の報が入る。空母の有無はまだわからなかったので、第2次攻撃隊を対艦兵装に戻すかは待機となった。が、「空母らしきもの発見」との報が入ったとき、第1次攻撃隊が母艦に戻ってきたのだった。(

)結局、第1次攻撃隊の着艦収容が優先された。そして収容が終わったときに、アメリカ空母艦載機の攻撃がはじまった。まず来た雷撃機は、直掩の零戦が次々と墜としていったが、その低空戦闘をしていた隙をついて、急降下爆撃機が上空から襲いかかってきた。3空母が一瞬にして被弾。格納庫内の航空機、燃料、爆弾、魚雷が次々と誘爆、大炎上してしまったのだった。

被弾すること自体は仕方のないことである。まずかったのは第2次攻撃隊という爆発物が格納庫に抱えられたままとなったことだ。そこには満タンの航空ガソリン(すぐに気化し爆発する)と、対艦と対地の魚雷も爆弾も放置されたままであった。また、この第2次攻撃隊を米空母攻撃に出せていたら、こちらも戦果を挙げることができていた。だから第2次攻撃隊を出せなかったことこそ痛恨のこと、現場レベルでは、これが大敗の理由だといえるのである。

ならば、この現象がなぜ現場で発生したかである。

まずは何よりも、この事態、敵空母発見と第1次攻撃隊の収容が同時となる、その懸念を抱くこと、その事前対策を十分に検討しなかったことがあげられる。要は、島(対地)と空母(対艦)の2正面戦闘の事前シミュレーションだ。これが十分になされていたら、結果は違っていただろう。

それがなされなかった理由は何か。よく指摘されるのは「おごり」だ。日本海軍は開戦半年間、戦争準備が遅れていた米海軍を相手に押せ押せで来ていて、ミッドウェイも楽勝との姿勢で臨んでいたという。また空母対決というのは1か月前の珊瑚海海戦が史上初めてのもので、第一、第二航空戦隊としてはこのミッドウェー海戦が初めてのことであったのに、珊瑚海海戦の第五航空戦隊は新米部隊だから、先輩の第一、第二航空戦隊が彼に学ぶ必要はなしと、珊瑚海海戦の教訓をとりこまないままミッドウェイ作戦に臨んだというのもあったらしい。

ところが、おごりがなかったとしても、2正面戦闘の危険性に気づき、検討されていたかといえば、これがはなはだ疑問なのだ。図演では米空母が出てきたものの、結局は「まず出てこないだろう」という雰囲気になってしまったらしい。相手がどう出るかをあまり懸念しないのは、外づきあいを避けてきた日本人の悪い習癖だ。ここにあるのは「おごり」というより、現実逃避癖、しっかり現実を見据えて対処しないで、事態を自分の都合のよいように考えてしまう日本人の甘さである。米空母が待ち構えているというのは真珠湾攻撃の図演のときも出た話だったのだが、真珠湾では「運良く」敵空母は出てこなかった。だからミッドウェイでの索敵実施と第2次攻撃隊の対艦待機も「念のため」「とりあえず」程度の感覚であり、艦隊も司令部がそう言うからそのとおりにしただけで、別にそれについて、どういう結果になるか、あらためて考えてみる気になどならなかったのが事実のようである。司令部がこの指示を出したときに「2正面戦闘になったときのことを十分に考えておけ」とでも言えれば、まだよかったのであろうが、これも上述の雰囲気からすれば出てくるようなセリフではなかった。

こう見てくるとミッドウェイ作戦には、最初からどこか無理が感じられる。前に出る必要はあまりないのに、なおも前に出るために前に出るというという印象。作戦考案者が自分の意志で作戦を考えたというより、何かある盲目的衝動につき動かされている感じがあるのである。正直なところ、「敵空母発見と第1次攻撃隊の収容が同時となった」なんて、自分で自分の首を絞めたようなものであろう。

この無理はどこから来ているのか?

ミッドウェイ作戦は、もともと開戦以来押しまくっていた日本海軍が、神出鬼没な一撃離脱攻撃を繰り返してくる米空母を壊滅させるために立ち上げた作戦であった。米空母のこしゃくな攻撃には、海軍のメンツが丸つぶれになったまさかの日本本土空襲(いわゆるドーリトルの空襲)も含まれていた。もともと連合艦隊司令長官山本五十六は、米軍による本土空襲を何より恐れていた。ゆえにこちらが押している今のうちに米海軍をつぶす必要がある、米空母を即急に撃滅しよう、そうして米空母をおびき出すために行われたのがミッドウェイ作戦だったのである。ところが、ミッドウェイ島を攻めておびき出すと言っても、米空母がいつの時点で出て来るかは分からない。ミッドウェイ奇襲中に出てくるのか、占領後か、占領後なら何日目くらいか。それが不明確なままで準備を進めているうちに、ミッドウェイ作戦は米空母撃滅ではなく、ミッドウェイ島占領のほうに重きがスライドしてしまったのであった。だから「米空母はまず出てこないだろう」ともなってしまったわけである。

ここでもう軸がぶれてしまっているのである。ミッドウェイ島攻略が目的なら、敵将ニミッツが戦後指摘したとおり、日本海軍は米太平洋艦隊に勝るそのほぼ全艦艇を動員したのだから、奇襲にこだわらず、全軍でもってミッドウェイ島に押し寄せれば良かった。そうしなかったのは、日本海軍がミッドウェイ島占領など本気で考えていなかったことを示す。すなわちミッドウェイ作戦は、作戦の主旨が完全に失われたまま進められた作戦だったのである。

こう考えてくると浮き上がってくるのは、日本海軍のやたら前へ前へと出たがる猪突猛進性だ。そもそも真珠湾攻撃からしてそうだった。そして真珠湾攻撃もまた危険な作戦だった。しかし真珠湾攻撃は成功し、ミッドウェイ作戦は失敗した。なぜか? 理由などない。両方ともバクチ作戦であり、バクチの成功したのが真珠湾攻撃で、失敗したのがミッドウェー海戦なだけである。

となれば、結局は、そのようなバクチ的作戦ばかりしていたことが悪いということになろう。なぜそのような大バクチの作戦を日本海軍はここぞで続けてしたのか? それは、対米戦争自体がバクチだったからだ。

アメリカに負けると一番わかっていたのがアメリカを仮想敵国としてきた当の海軍だった。2年たてばアメリカが大兵力をそろえてくるのは分かっていた。ならば南方を占領し、その後、アメリカが大兵力で進撃してくるのを待っているというのは、大した戦果も上げないままに敗北を迎えてしまうだけの可能性がある。ならば戦力差がない今のうちに、突撃して、敵をやっつけられるだけやっつけておくほうがまだマシだ。それをすれば1%しかない勝つ確率も、もしかしたら2%くらいにはなるかもしれない。あるいはもうアメリカとの戦争は決まっているのだから、じゃあ滅茶苦茶に戦ってやろうじゃないかと闇雲に突撃していった。そういう考えがあったから(本当にそう言語化していたわけではないが)、海軍はひたすらバクチ作戦を行った。ひたすら前進した。そう考えられるのだ。

それならば、ミッドウェイ海戦の1番の敗因は、対米戦という無茶をやったことにあるとなろう

対米戦、その戦いはどこかで負けはじめる宿命だった。その宿命に基づき、最初の半年間うまく行っていた分がいきなり一点で積分的に清算されてしまったのがミッドウェー海戦だったと言うことではないか。実際、この方程式の中には、上述の「おごり」や希望的観測の発生、米空母殲滅への勇み足なども必然的に内包されているのが分かるだろう。

ならば最終的には、なぜ日本は対米戦という無茶をやったのか、ということが問われねばならない。ここに、冒頭で述べさせていただいた「ミッドウェイ海戦の大敗には日本人の一番の弱点が現れたのではないか」という問いへの答もひそんでいそうだ。また、今一つ述べた「作戦考案者が自分の意志で作戦を考えたというより、何か背後にある盲目的衝動につき動かされているかのような感じがある」ということともつながってくる。これは、日本なるものの本質につながるさらに大きな問題だ。記事をあらためて考察することとしたい。

 

レイテ沖海戦の栗田ターンはまちがっていない

ネットにおける有名人への誹謗中傷が問題になって久しいが、ミリタリーオタクのあいだでは、ひどいことをしたわけでもないのに、いまだ誹謗中傷されつづけている旧帝国軍人がいる。1944年のレイテ沖海戦において、レイテ湾突入前に突如Uターンして引き返した栗田提督だ。私はこの栗田の判断は致し方ないことだったと思う。なのにまるでバッシングする好餌とばかりに非難され続けている。ここら現代日本人の誹謗中傷好きと大いに共通点があると思うのでひとこと言わせていただきたく思う。

まずなぜ、栗田の判断が致し方ないものだったといえるか。それは、レイテ沖海戦における日本海軍側の作戦は、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍の物資輸送船団を殲滅するために、レイテ湾に水上艦隊(戦艦、巡洋艦、駆逐艦)を突入させるというものであったのだが、その主力の栗田艦隊がレイテ湾の入り口までに来た時、もうその目的はほとんど果たせ得る状態ではなくなっていたからである。

レイテ湾へは、主力の栗田艦隊が東から、別働隊の西村艦隊が南から同時に突入する予定になっていた。しかし、敵の主力(大空母部隊)を引きつけるはずの小沢艦隊はそれを果たせず(引きつけることができたのは翌日)、栗田艦隊は途上、フィリピン内海のシブヤン海で敵空母航空隊の空襲を受けて進撃に遅れをきたし、ここで早くも西村艦隊との同時突入は不可能になっていた。その西村艦隊は予定時刻どおりにレイテ湾に突っ込もうとしたものの、待ち伏せしていた米艦隊(上陸部隊の護衛艦隊)の攻撃を受けて全滅、西村艦隊の直後から突入する予定だった志摩艦隊もその惨状をみて、「敵情わからず。突入を中止する」と栗田艦隊に打電し、これも撤退していた。栗田艦隊にしても3日間の進撃中に戦艦1隻、重巡洋艦7隻を失っていた。結局レイテ湾に突入できる戦力は、出撃時の半分以下になっていたのである。加えて、制空権はアメリカに奪われており、あちこちに配置されている米護衛空母部隊による空襲は止むことがなかった。これでは撤退の判断も致し方がなかったといえよう。実際、このときレイテ湾にいた米軍の戦力は主力艦隊ではないのに、水上艦だけで栗田艦隊のほぼ2倍であった。突入していたら世界最大の巨砲を持つ戦艦大和はまだ健在だったので敵戦艦を1隻くらいは沈められたかもしれないが、そこが日本艦隊終焉の地となっていたことは間違いないだろう。(

)そもそも、4か月前のマリアナ沖海戦で日米の戦いは勝敗が決していた。マリアナ諸島がアメリカの手に落ちれば、そこが新鋭重爆撃機B29の発進基地となり、日本本土が空襲圏に入ってしまうことは分かっていたのだから。つまりレイテ沖海戦=フィリピン攻防戦は、やらずもがなの作戦であったのだ。もうあとは日本側の死者をいたずらに増やすだけの戦いが繰り広げられていくだけであった。実際、太平洋戦争でもっとも日本軍に死者が出たのがこのフィリピンの攻防戦だ。特攻が始められたのもこのレイテ沖海戦からで、もはやそれは死ぬことを目的とした戦いに変わっていたと言っていいものであった。

そして栗田艦隊に命じられたレイテ湾突入も、はっきり言えば特攻だったのである。しかし、この時点では、死ぬと決まっている特攻隊員にはともかく、多数の乗組員を抱えている艦隊に「死んでこい。生きて帰って来るな」とは司令部も言えなかった。ならばこの作戦、「これまで!」と撤退する余地もまた残されていたわけで、「栗田は逃げた」と批判するのはあたらないというべきである。

ところが、栗田は上記のような説明はせず、敵機動部隊が北に出現したという情報が入ったのでそれに戦いを挑みに行ったのだと弁明した。この情報の発信源は不明で、それゆえ栗田ターンは長く謎とされてきたわけだが、存命の旧軍人の方も少なくなった今では堂々と批判することができるようになったからか、レイテ湾までの途上で敵艦隊と遭遇したならそれと戦ってもよいとの司令部のお許しにかこつけた栗田艦隊自身の捏造情報であると捉えられることが多くなっている。私もそうだと思う。だから非難されているわけだ。しかし、これは、そのようなウソをでっちあげないと、まともな行動がとれない国だから仕方がないというべきではあるまいか。思うに、日本人は当時も現在も上から無理難題を押しつけられながら生きているので、無理難題を無理難題としてやらずに済ませた栗田、ほかの者が特攻したのに特攻しなかった栗田を許せなくなるのであろう。しかし、真実・本音を言うその道をあらかじめふさいでおくことこそ卑劣であり、そういうふさがりがデフォルトになってる文化のほうが問題ではないのか。おそらくこのような気質は、特攻を可能にした気質とも通底しているものである。

ともあれ、栗田が死なずに帰ってきたために、次の作戦では司令部も艦隊に、はっきりと「生きて帰って来てはならぬ」と命令するしかなくなったのであった。言うまでもなく、さらに半年後の戦艦大和沖縄特攻作戦のときである。このときの作戦はレイテ沖海戦より無謀なものだったので、艦隊側も抵抗を示したが、司令部側がついに、「一億総特攻の先駆けとなってもらいたいのだ」とはっきりと言ったので、艦隊の伊藤整一中将も「それならわかった」と承諾するしかなかったのであった。かくて大和部隊は出撃し、沖縄に到達することなく、米空母航空隊による一方的な攻撃をうけ、4000の命とともに東シナ海の藻屑となり、連合艦隊の歴史はここに幕を閉じたのであった。

これで誰が得をしたというのであろう。日本海軍は最後まで戦い立派だったなどと誰が言えるだろうか?

最後通牒はハル・ノートでなく日本の乙案の方だった

日本がアメリカとの戦争を決意したのは、ハル・ノートという過酷な条件の最後通牒をつきつけられたからだ!

といまだに思っている人が多いが、これは大の字が10コくらい並ぶ大ウソである。

真実はこうなのだ。

日本は1941年11月5日の御前会議で、1か月後の日本時間12月1日0時までに(以下すべて日本時間)日米交渉がまとまらないなら、12月初旬に米英に武力行使を仕掛けることと決定した。このとき日本がアメリカに渡すために用意した、譲れるギリギリの提案は「乙案」と呼ばれ、この乙案を日本は、11月21日にワシントンでハル国務長官に提示した。つまりこれをアメリカが、9日後の12月1日0時までに飲まなければもう開戦は決定だったのである。

ところが、アメリカは暗号解読で、乙案を受け入れなければ開戦という日本の腹づもりを知っていたのだ(ただ真珠湾を攻撃されるとは知らなかった)。そしてアメリカの、乙案に対する回答は「ノー」であった。その「ノー」は11月27日に、日本大使を呼んでハル国務長官から告げられた。つまり、この時点で日米とも「これで戦争だ」となったわけである。そのときハルが同時に渡した「アメリカの条件はこうだ」というのがハル・ノートである。

お分かりだろうがこの状況、日本の乙案への「ノー」がすべてなのであって、ハル・ノートはどうでもいいものなのである。ただ「ノー」の返事だけだと暗号解読できてることが日本にバレてしまうから、ハルもこちらの案を提示する必要があっただけなのだ。だからハル・ノートの要求は厳しいながらも期日、範囲が不明確で適当な、元のアメリカの一方的要求であるところの原則論、つまり、もはや他国への侵攻は認められる時代ではないというものに戻ったものなのであり、また公式文書ではない私的案の覚書で間にあわされているのである。(

 

)だからハル・ノートは最後通牒でもなんでもない。最後通牒とは「平和的交渉を打ちきり、最後的な要求を示すとともに、それが認められなければ、自由行動・実力的行使をすることを述べた外交文書」(三省堂 新明解国語辞典)のことだ。上記の経緯では、日本の乙案のほうが、最後通牒になっている。そもそもハルノートを日本が飲まなかった場合、アメリカが何の実力的行使を今さらあらためてするというのだ。石油禁輸という実力行使ならもうしているではないか。

ハル・ノートはせいぜい表現するなら「開戦前に日米間で交わされた最後の文書」くらいである。実際には、「最後の文書」は、日本が渡す「交渉打ち切り通告」となる予定だったのあるが、真珠湾攻撃開始の30分前に渡される予定だったそれは、攻撃開始の1時間後になって渡されたので、「開戦前に日米間で交わされた最後の文書」にはならなかった。

以上のようなことなのに、ハル・ノートが日本を追いつめた最後通牒とされているのは、なぜか? それは、かの戦争、日本に非はないのだとしたい人間が、そういうデマを日本人に浸透させようとしたためである。現代日本人も自分たちの先祖は悪くないと思いたいだけにそれを簡単に受け入れてしまった。「ハル・ノート」というよく分からない横文字単語も効果があった。今日では「ハル・ノート」という言葉は「日本は悪くない。アメリカが悪い」という意味の呪文になっているとさえいえる。

このデマの浸透に大きな貢献をしたのは、日本の教科書であった。

私の家にある日本史教科書(東京書籍)では、「11月26日にアメリカのハル国務長官が強硬な提案を示すと、12月1日に開かれた御前会議では12月8日の開戦を決定した」とまるでハルノートの強硬さがために日本は開戦を決定したかのように書いてある。

しかしより大きなゴマカシは日付だ。上記の教科書以外に日本史図表(第一学習社)というものも私は所持しているが、両方とも、真珠湾攻撃の日をはじめ、すべて日本時間で書いているのに、「ハル・ノート回答」だけ、11月26日とアメリカ時間で表記しているのである。上述したようにハルの回答は日本時間では11月27日なのだ。しかも上記の年表では、真珠湾攻撃とハルノートをのけて、月までしか書かれてないのに、この2件だけ日まで書かかれている。

なぜこのように書いてあるかというと、おそらくは、真珠湾攻撃の奇襲艦隊出撃が日本時間の11月26日だからである。つまり史実は、ハル・ノートが手渡される前に奇襲艦隊は出撃しているわけだが、ハル・ノートを26日とすることによって、ハル・ノートのために日本艦隊は出撃したという「ハル・ノート最後通牒説」に沿った目くらましができると、この教科書作成者たちが考えた、いや、そう書けと文部科学省から指導があったからだと疑われるのである。厳密に調べればひっかかるはずのない手なのであるが、誰しもがそこまで調べるわけではない。「定説」というのはこうして広まっていくのだ。

ちなみにこれは現在の一般書籍でも同じであるらしい。2019年出版の某有名歴史著述家が編んだ新書本では、各章の最初に日付を追って事件が羅列されてるのであるが、ハルノートと真珠湾攻撃の艦隊出港を同じ11月26日とし、しかも、ちゃんとハルノートを先に書いているのである。やれやれ。

こんな嘘を平気でついているのであれば、よく言われる、「真珠湾攻撃前の30分前にハルに渡すはずだった実質の宣戦布告たる交渉打ち切り通告が、日本大使館員の不手際と怠慢で攻撃後になったのはウソで、最初から日本は相手に迎撃準備をひとつもさせないために、わざとそれを遅らせたのだ」という説も本当ではないかと疑惑がもたれよう。そもそも、すでに日本艦隊は12日もかけてこっそりハワイに近づいていたのだし、また、「交渉打ち切り通告」が攻撃開始の30分前に手わたされていたとしても、その12日間、交渉は続けられていたのだから、アメリカが「卑怯なだまし討ち」という名目につけこんで国民を奮起させることができたのには変わりはなく(というか日本が先に手を出したというだけで十分だった)、つまりは「交渉打ち切り通告」の手交は、攻撃開始前だろうが後だろうが「卑怯」ということではほとんど違いはないわけで、日本側は、より奇襲が確実となる後者をえらんだということにすぎないというのがおそらく事実だろう。通告が間にあっていたら卑怯なジャップという汚名をこうむらずに済んだのになどというのも、「ハル・ノート最後通牒説」同様、意図的に流されている身びいきの自己欺瞞にすぎない。

☆ ☆ ☆

なお、この「ハル・ノートという過酷な条件の最後通牒を突きつけられたから日本は戦争に追い込まれた」という他、太平洋戦争開戦の三大誤解とでもいうべきものに、「アメリカは中国における市場権益をとりたいがために日本の中国侵略を邪魔しようと石油を禁輸し、それが戦争につながった」というのと、「日本は短期決戦による早期講和を目指して開戦した」というのがある。これも両方とも真っ赤なウソである。

アメリカが石油を禁輸したのは、日本がドイツの快進撃に便乗し、仏印(フランス領インドシナ)に進駐、欧米諸国の東南アジア植民地を奪う姿勢を見せたからだ。アメリカは、それまで日中戦争だけのときには石油も屑鉄も日本に売っていたのである。もちろんアメリカは当初から日本の中国侵攻を非難はしていたし、中国を支援してもいた。しかし、日本への石油輸出まで止めたら、日本は蘭印(オランダ領インドネシア)を奪うために武力南進してしまう。だから日本と貿易をしながらも中国を支援することによって、日本軍を中国に釘付けにしておこうと考えたのである。にもかかわらず日本が南部仏印進駐を行ったので、石油を止めて「それ以上南へ進むな」とストップをかけたのだ。アメリカの中国への市場権益などまるで関係がない。実際に戦後、アメリカはそれを得てもいない。

短期決戦、早期講和ときたら、そんな国策はまったくなかったし、当時の一次資料にはそんな言葉すら出てこない。出てくるのは陸海軍、文官とも長期戦の見通しばかりである。百年戦争、大長期戦などとまで言っている。これは、後世の日本人が、連合艦隊司令長官山本五十六の「半年、1年なら暴れられる」や「開戦劈頭から猛攻を連続する」といった言葉をもとに、日本の戦争計画は、短期決戦、早期講和だったとでっちあげたにすぎない。実際には山本とて開戦したとき「この戦は未曽有の大戦にていろいろ曲折もあるべく」「すこぶる長期戦になる」と長期戦の決意をしたためているのである。

このふたつの俗説も「ハルノートの俗説」と同じく、史実より日本の「悪どさ」、あるいは「バカさ」を薄められるがために広まったものである。日本が中国のみならず東南アジアまでをも侵略しようとしたということからそれとなく目をそらさせることができ、アメリカが日中戦争にかこつけてちょっかいを出してきたのだと思わせることができる。日米戦は、まったく見通しも持たないままの成り行きと感情任せの開戦だったのが事実だが、短期決戦、早期講和という計画がちゃんとあったのであり、日本人は無謀なことをしたバカではなかったのだ、とそう思わせることができる。だから広められた。つまりは「ハルノートの誤解」も含めて、すべて、身びいき論なのである。だからこそ定着もしてしまったのだ。

「日本スゴイ」の無邪気な自国礼賛がいまだまかり通っている今日、これらの自己欺瞞が払拭される日は当分来ることはないであろう。