なぜ日本はアメリカとの戦争を避けることができなかったのだろうか?
当時、アメリカの国力は日本の10倍だったのである。本気でぶつかりあえば負けるに決まっていた。これはあと知恵ではなく、当時の日本の最高有識者でチームが組まれた「総力戦研究所」からもそう報告が出ていたのである。なのに、なぜ?
日本が開戦に向かった状況的理由としては、大きく3つある。1つは東南アジアを欧米から奪い取る絶好のチャンスが到来したことだ。太平洋戦争は東南アジアの支配権をめぐる戦いであった。それを奪取するチャンスが、欧州で快進撃を続けるドイツによってもたらされた。第2次世界大戦をひきおこしたドイツは1940年、オランダ、続いてフランスを撃破し、イギリスにまで進攻しようとしていた。これで欧米のアジア植民地、すなわちフランス領ベトナム、英領マレー、オランダ領インドネシアは、日本帝国の前に風前の灯となったのである。あの資源豊かな東南アジアをとる大好機! しかしその地域には米領たるフィリピンも含まれていた。アングロサクソン紐帯もある。東南アジアを得んと動くならアメリカとの戦いは避けられない。
そして2つめとして1941年6月、同じくドイツがついに大国ソ連に攻め込んだことが起爆剤となった。これは物理、精神両面で日本のアメリカへの挑戦意欲をかきたてた。物理的な面とは、とりわけ陸軍が長年の宿敵であるソ連のことを考慮しなくてよくなったことだ。そして精神的な面とは、大国に挑戦状をたたきつけるという同盟国ドイツの勇猛さ、大胆さに感化されたということである。(私個人はこの精神的理由が一番大きいと思っている。戦争することを最終的に決意させるものは戦意だからだ)
実際には総力戦研究所は、ドイツがソ連に勝てないというところまで予測を出していた。しかしものともせずドイツは、われらの宿敵でもある大国ソ連に果敢に進撃している! そもそも三国同盟は、ドイツが日本のアジア支配を認める代わりに、日本はアメリカを地球の裏側から牽制するということで成立していたものであった。ならば日本も共通のもうひとつの敵である大国アメリカに挑むべきはないのか!? 軍部の好戦主義者たちの戦意と興奮が頂点に達したであろうことは容易に想像できる。
実際、独ソ戦と日米戦は実に似ているのである。安易な勝算でもって大国に挑んだ無謀性。機甲師団、機動部隊の新運用をそれぞれ敵に模倣され、それによって押し返された展開。南方を残しながら中央突破をされたこと、等々・・・。
そして3つめの理由として、当時は史上、日米の戦力差がもっともなくなったときであったことがある。アメリカは孤立主義を貫いていたので戦争準備が遅れていた。対し、日本は全力でそれをしていた。速攻で押して押して押しまくればなんとかなるのではないか!? この速攻に賭けた皮算用も独ソ戦と同じだ。
こうして対米戦の賽は投げられた。
ドイツがソ連に侵攻すると、すぐさま日本は南部仏印に進駐し、アメリカに石油の禁輸を食らっているが、これはおそらく確信行為でやったことだろう。ここから開戦までの4か月は、交渉により和平を探っていたというより、開戦準備への時間稼ぎであったというほうが当たっている(東南アジアへの進攻開始時期は季節も考慮するので)。そもそも無血進駐だった南部仏印進駐は「英霊のために引けん」という理由もないはずだったのに、日本は南部仏印撤退というカードすら切るつもりはなかったのだから、交渉の気など最初からなかったとしか思えない。南部仏印進駐が実質上の対米宣戦布告だったのだ。戦後、旧軍人たちは「南部仏印進駐でアメリカが石油禁輸をしてくるとは思わなかった」とよく言っているが、これは開戦の責任逃れのすっとぼけであろう。1年前の北部仏印進駐のときアメリカから、屑鉄と工作機械の輸出を止められ、それ以上進むならさらなる経済制裁を行うと忠告までされていたのだ。英領マレーが射程に入る南部仏印にまで駒を進めればもっと決定的な経済制裁をくらうのはわかりきったことであった。
しかし以上3つの「状況的」理由より、日本が軍国主義に染まったという「内的」理由のほうがより分析されなくてはならないだろう。もし当時「戦争を避けるためにとにかく南部仏印からは手を引くことにしてアメリカと話し合いを行おう」などとのたまう文官の首相がいたら間違いなく暗殺されていただろう。すでに中国への侵略は開始されていたし、それ以前、軍部暴走の内向きバージョンである五・一五事件や二・二六事件で、そういうことを言える者が首相にはなれない国になっていた。最終的に陸軍大臣である東条英機が首相を兼ね、開戦となったことは、ご存じのとおりである。
つまりは、なぜアメリカと戦争したかというと、領土拡大のまたとなきチャンスに目がくらんだ軍国主義者が、総力戦研究所の勝てないという予測を嬉々として踏みつぶし、世界戦争祭(不謹慎な言葉だが)に日本を飛びこませたということだろう。
どうして日本は軍部が力を持つ社会になってしまったのか。
いわゆる悪名高き統帥権の独立——すなわち日本の軍隊は天皇の軍隊と憲法で規定され、内閣からは独立していたこともまずかったのだが、もっと大きな理由があった。それは、大正時代まで日本を(もちろん軍も含め)真に治めてきた元老が、昭和になってからは公家出身の西園寺公望だけになってしまったことだ。これで軍部は誰のコントロールも受けず、自らの本質、すなわち暴力の論理で動くものと化し、それが日本を支配してしまったのである。
徳川幕府などはかつてアメリカと戦うことを避けたのだから、日本に強大な敵との戦いを避ける思考回路がなかったわけではない。しかし最終的には攘夷感情のほうが上回っったのだった。西園寺以外の元老たちといえば、皆、薩長出身者で、かつて英米仏と下関戦争、および薩英戦争で戦った元武士たちである。いわばその攘夷感情が彼らの作った近代日本軍に受け継がれたのだ。
中でもそれを体現したのは、軍のトップではなく中堅エリート幹部たちであった。明治維新にしても同じくらいの歳の人間によって行われたものである。戦争や革命というものは本質的に若い力でなされる。ドイツのソ連侵攻にもっとも感化されたのもここらの連中だろう。太平洋戦争開戦当時は、大臣、おじいちゃんたちももはやそれに従うだけの社会となっていた。(おじいちゃんたちだけを見てれば、よく言われる、誰も責任をとりたくないのと開戦するのが気分的に一番楽だからという理由で開戦したように思えるだろう。しかし好戦的な意志がなければあれほど緒戦、積極的に日本軍が動くことなどありえないことである)
しかも中堅エリートはトップではないので、責任感に縛られることなくかえって好き勝手なことができた。加えて彼らは、誰と誰が固定的な首謀者というのでなく、代替わりする存在であったので(満州事変の首謀者石原莞爾中佐も、将官になったときには日中戦争に反対した)余計に責任の所在がわからなくなり、軍部の暴走はいたずらに加速するばかりとなった。
このような武力攘夷主義者が出現する基盤が日本には元からあった。長く武士が統治する国であったし、何より島国で長く鎖国してき、外国を排除したがる傾向が他国よりも強かった。そんな中で、巨大な欧米船がわがもの顔に通航する関門海峡、それを擁していた外様の長州藩は、攘夷の感情が特に増幅しやすかった。これは薩摩も肥前も土佐も少なからず同じで、ペリーが来る直前、秋田藩から強力な国粋的国学者、平田篤胤、佐藤信淵が現われたのも、当時、ロシア船が東北日本海側によくあらわれていたからであった。
また危険な戦争を押しとどめようとする力、すなわち武力至上主義を抑える国家的理性の発達が、日本においては軍部、右翼などの暴力によってつぶされ続けていた。近代日本という自動車はアクセルだけが発達し、ブレーキが備わっていなかったのだ。
そして一般国民は国民で、これは今だにそうだが、受け身の伝統が身につきすぎていた。国民全員に同じ行動をとらせることができれば国は統治がしやすいわけだが、孤立的な島国はそれがいとも容易である。日本は支配者によって一元化がしやすい国なのだ。多くの日本国民はやがて、軍に支配され、軍に忖度することが身についてしまった近代マスメディアによって「神国不敗」「鬼畜米英」と情報操作され、新しき攘夷論、自国万歳論のほうに一律、押し流されてしまった。そして近代総力戦であったから、これはドイツもそうだが、総力戦の論理に従い、行きつくところまで行ってしまったのであった。
先の戦争により日本人は戦争の恐ろしさを十分に知ったといえるが、一律に押し流されること、そしてすぐに自国万歳論に傾くという一元化特性のほうは、現在もなくなったとはいえない。その証拠は今もわれわれのまわりにふんだんにある。