たまきちの「真実はこうだ!」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku×kvp.biglobe.ne.jpです(×は@です。迷惑メール防止のため))。

日本人はなぜ出し惜しみをするのか。

昔、宮城音弥という日本の心理学界の大御所だった人がこんなこと書いているのを読んだことがある。「日本の昔話に欲張りが最後ひどい目にあうという話が多いのは、日本人が欲張りだからではないか。日本人の欲張りさを抑止するためにそういう話が多いのではないか」と。私はこれを読んで「欲張りはどこの国でも一定数いるだろう」と思ったものだが、その後も、似たような「日本人欲張り説」を裏付けるような話を何度か耳にしたことがある。

ひとつは昔、太平洋戦争の前線で、戦死したと思っていた兵士が部隊に戻ってきたら、怒鳴られて「もう一度行って死んで来い」と最前線に出されたという話だ。これは別々の証言(本)で見たことがあるので、よくあった話なのだろう。しかし問題はそう命令した真の理由だ。抱える人員が増えたら、食べ物が減るからだというのだ。

欲張りというよりはケチ。自分の生きる糧を確保するのに汲々となるというべきか、出し惜しみをするというべきか。ここら、日本人の縄張り意識などとも通底している感じがみてとれる。正直、外国人のほうが良くも悪くもおおらかなのは確かだろう。

つらつら考えるに、これは日本人が閉じられた島国で、資源が限定的であることに端を発しているのではないか。資源が限られているから日本人は、自分の分を確保することを第一に考え、他人、身内以外には冷たくなってしまう。鎖国などされれば(島国であるからやりやすい)余計にその傾向は強くなる。

こういった物理的現実は、精神形成にも影響を与えずにはいない。現在では、資源の輸入、貿易は普通にひんぱんに行われているが、それでも地理的、歴史的に培われた気質はかんたんに変わるものではない。(

)これは日本人が「すぐあきらめてしまう」ことにもつながっている気がする。粘り強さがなく、冒険を最初から放棄し、保守的、従順になる。なりすぎる。世界が広いと認識されれば、自分の可能性もまた無限と考えやすいし、冒険にも出たく、というか出てしまいやすいが、最初から世界を限定されてしまうと非積極的になって当然のことだ。

また日本のおエラがたは日本の若者に日本から出て行ってもらいたくないので、なんやかと日本人は日本から逃げられないのだみたいな精神的束縛をあの手この手でかけてくる。こんなガチガチ拘束社会だから日本の多くの若者たちは、あまり反発もしない代わりに「どうでもいいや」と選挙なども行かなくなってしまうのではなかろうか。そしてその圧迫に屈したまま齢をとってしまえば、こんどはその精神的束縛に力を貸す側に回ってしまうのではないか。ネット右翼などという連中などは大抵そんなところだろう。

 

日本にはなぜ政治の中枢がないか~属する組織が至上の社会

よく言われることだが、なぜ日本には政治の中枢がないのだろうか? 日本では首相は首相という役柄を演じているにすぎない。外国の宰相が日本の首相と約束をとりつけても、それはノーの意味だと皮肉られたこともある。首相に決定権がない証拠である。日本には、権力が最終的に集中された政治の中枢者がいないというのはまちがいない事実だろう。

なぜそうなったのか? 

それはまず、各省庁、各団体にとって、全体を見てものごとを判断する政治の中枢は、自分たちの利益を損なわせるかもしれない存在だからなのがある。政治の中枢という強力な機関(あるいは人間)がいれば、ヘタをすると全体をかんがみられたのちに「君たちはもう必要ない」と切り捨てられる、あるいは縮小せられる可能性がある。だからどの組織も申し合わせたように政治の中枢が成立しないことに加担する。お飾りの内閣を良しとする。なるほど、これならば世襲議員はうってつけだ。

では、なぜ日本では各組織、団体の力がそんなに強いのか。

まずは各組織団体が強くあることは、日本が強くなることにつながるからというのがある。政治中枢だけが強くても、それによって動かされる媒体が強くなければ国は強くなれない。また個人個人が強くてもしかり。何にもまして、個人個人が集まった組織団体が強くなければならない。実体・主体となっているのは「組織団体」なのだ。だから組織団体が強くあることが何よりも望まれる、奨励される。

さらにもうひとつ、日本の各組織が強いのは、各組織・団体が実際に多くの人間をかかえているからなのもある。が、より大きいのは、それが、割り振られたものということにあるかと思われる。どういう意味かというと、それは単に大勢の人間が集まってできている組織ではなく、最初から日本国民全体を割り振ってできているものということである。(

)日本人は常に何らかの組織に帰属させられる。日本では、ならず者にさえ暴力団という受け入れの枠があるというのもよく言われるところである。だから、ある組織が政治の中枢によって不要と判断されるということは、そこに割り振られた人間たちが路頭に迷うことを意味する。日本では組織と個人との一体性が強く、組織間を移動することも奨励されていないからそうなってしまう。誰だって路頭になんて迷いたくはないし、路頭に迷った人間が反体制分子に変貌するのはもっと歓迎せざるところであろう。日本の企業がなかなか倒産させられないようにされているのはこのためだ。

つまり日本は、社会の安定のために、最初から「枠」で決めつけが行われている社会である。「枠」からはずれたら何もないし、また周囲も「枠」からはずれさせようとしない。「枠」こそすべて。そこに各人の生存もかかっている。だから「枠」は徹底的に守られなくてはならない。これがおそらく日本において各組織団体の力が強い一番の理由だ。

こんなだから日本では、各組織団体が横並び状態となる。もちろんたとえば省庁の中では財務省が一番強いなどの差異はあるが、財務省とて政治の中枢ではない。彼らは自分たちが日本を引っ張って行っているのだと自負している反面、自分たちのやっていることが非難されると、いつも「財務省は財務省の仕事をやっているだけ。気に入らないならそれを変えれる政治家をあなたがた国民が選んでください」と逃げる。かといって、真にものごとを変えれる政治家、政党を生み出したくても、日本人自身ほぼ全員がすでに「枠」に入れられているし、政治の中枢はあらしめられないよう常に強力なる各組織団体に監視されているから、結局そのような政治の新勢力も生まれてこない。ここらは日本という国に自浄能力がないことの原因にもなっている。

かくて日本では、重要な決定事項は複数組織の(ときには暗黙の)最終的合意によってようやくに決められるということになる。日本政府の意志決定の遅さはここに起因している。決済の書類に全員のハンコが必要な社会。それは全員の顔を立てるというより、全員の実質的な生きる糧を保証しあう確認作業なのだ。ここらは日本人ならいろんなバリエーションが思い当たるだろう。

こんな体制が成立してるのは、言わずもがな、日本が閉じられた島国だからである。他国はたいてい地続きの隣国が横にあるので、こういうガチガチの枠縛り体制にはならない。枠を作ったところで流動的、相対的なものにとどまり、日本のような絶対的なものにはならない。彼らとて外国と対立、ときには戦争、支配、被支配ともなるが、外国は生きていくための仲間でもあり、ときには逃げ場所でもある。日本人にはこういう発想がない。おのれの所属する「枠」が絶対のものになってしまう。外国人でも宗教が精神的な絶対性を持つことはあるが、生活の部分はそれと分離していることが多い。対して日本では精神も生活も「枠」に囚われる。

おのれの「枠」が絶対となるなら、おのれの「枠」の上にいて指図する者、すなわち政治の中枢など不要となるのも道理であろう。

 

皇位継承問題のバカバカしさ~身も蓋もない本音

当ブログは『日本なるものの個人的考察』と銘打っていいくらいのものなのだけど、今話題になっている皇位継承問題については私はあまり関心がない。天皇制というのは『日本なるもの』の副産物にすぎないからだ。「中心ヅラ」はしているけどね。こんなだから私は、『天皇制』はともかく、天皇そのものにはあまり興味がない。ましてや天皇「家」の話となるとまったく関心がない。人んちの話やん。

そもそも、今やってる皇位継承論争は、バカバカしくて話題にする気になれない。「男系男子」ってわたしゃゲイ雑誌か女性向け同人誌のコピーかと思ったよ。Y染色体ときたらなんだかSFめいているし、一体何の話をしとるんだねキミたちは。

もっと正直なところを言うと私は「天皇」というものにかかわりあいたくないのだ。実際ネットでは大騒ぎしているが、継承問題なんてそんなにたくさんの人が関心持ってることか? 「天皇」を語る奴はみんなウサン臭い。 

それでもちょっと思っているところを言わせてもらえれば、結局のところ「男系男子主義」とは「男性絶対上位主義」なのである。こんなこと直観でわかろう。高市総理は女だが男系男子相続を主張しているぞ、と言われるかもしれないが、男が主張したら露骨なことなので、女に言わせているというのが本当のところだろう。

 

なぜ日本で漫画は発展したか

もちろん漫画が盛んなのは日本だけではない。アメリカにはアメリカン・コミックスがあるし、フランス・ベルギーにはバンド・デシネがある。それでもそれらは日本の漫画ほど巨大な存在ではない。アニメまで含めればさらに差がつくだろう。

なぜこれほどまでに日本では漫画が発展したのだろうか? 

ちまたで見かける見解には、わざとかというほど的外れなものが多い。日本語の表記が表意文字(漢字)と表音文字(かな)の混合なので、絵と文字の混合である漫画は、日本人が読むのに容易な媒体だから(ではないか)などといったものを見たことがあるが、これは単なる思いつきだろう。鳥獣戯画という部分を切りとって伝統とする説明も恣意的すぎてとても納得できるものではない。

ならば自分で考えよう。なぜこれほどまでに日本では漫画が発展したのか?

まず単純に、戦後復興から高度経済成長にかけて成長した「産業発展至上主義」とでも呼ぶべき不文律の国策。これの存在が何よりも大きいと思う。日本の漫画もまた高度経済成長の時代に大きく飛躍した「産業」だからだ。

この時期はどこの企業にもモーレツ社員(当時の流行語)がおり、もはや有名な話であるが出版業界も、漫画家や漫画家志望者をヤクザ顔負けの使い捨てあつかいで業績をのばしていた。特に出版社にとっては、テレビという強敵が出現したことで、それへの対抗策が必要となり、それで漫画に目がつけられたのもあった。テレビ普及を促進させたできごととしては1959年の「皇太子ご成婚」がよくあげられるが、奇しくも日本の4大漫画少年誌のマガジンとサンデーが創刊されたのもこの年なのである。(

)ただでさえ原稿をそのまま版にできる漫画はコストが安いうえ世間知らずの若い漫画家志望者の卵から使いものになりそうな者を選びぬき、そしてその他は捨てていくというアコギなやり方で、若者を夢中にさせる作品を提供し続けることができた。漫画は大手出版社のドル箱となる。これらはすべて産業発展至上主義に沿っているので了とされてきたのだ。

それが証拠に、日本では外国のように、漫画が有害だとして規制されることがなかった。アメリカでは、1950年前後にコミックスが「有害図書」として糾弾され、それからは「健全な」ヒーローもの1色となってしまっている。そうなるまではアメリカでも今の日本のほどではないにせよ多様な漫画が存在していたらしいのだが。

それに日本の漫画はもうひとつ別の面からも産業発展至上主義に貢献していた。学校・塾を通じて産業発展至上主義の縛りに疲れている子供、若者に癒し、青春の代用品を提供するという機能を果たしていたことだ。露骨にいえば、子供たちや若者を産業発展至上主義におとなしく従わす材料として漫画が有効であったということである。そもそも日本では日常生活においてはいろいろと縛りが強い一方、「ある設けられた枠内」ではかなりの自由、抑圧を発散することが許されるというところがある。あまり海外では見られない飲んだ席での無礼講とかキャバクラ文化などはそれで、つまり漫画もそのひとつなのだ。

この枠内には、倫理的追求の手も伸びることがない。上述した漫画家たちのひどい扱われ方や、先年海外メディアの批判を受けてさかのぼり問題になったジャニーズ性加害などは、これらの治外法権であったことを物語っている。ここらについては、日本では宗教的な圧力が強くないからという意見もあるが、また言うように日本とて日常習慣における行動規制は海外以上にきびしいので、宗教性の強弱はあまり関係ないだろう。いや、むしろ「産業発展至上主義こそ戦後日本の宗教だった」という表現が一番事態を説明できているのではないか。

以上が日本で漫画が発展した理由であるなら、なぜちまたで、わざとかと思えるようなトンチンカンな「日本で漫画が発展した理由」が並べられているのかもわかってこよう。それは産業発展至上主義といういかがわしい不文律の国策から国民の目をそらさせるためである。と同時に、世界第2位の経済大国から転落した「落ち目」の日本の世界に誇るものとして漫画を持ち上げることをしたいがためである。

大体日本の評論家が妙な説を唱えたときは、何か国家的たくらみの真実を隠そうとしていることが多い。評論家自体が意識的にそうしているのか、無意識的にそうしているのかは知らないが。

 

日本海軍が真珠湾攻撃をした本当の理由

なぜ今さら「日本海軍が真珠湾攻撃をした真の理由」などをここに書いておきたくなったかというと(なお主語が「日本海軍」になっているのは真珠湾攻撃は海軍単独の作戦だからである)、あまりに、「真珠湾攻撃は、日本の本命作戦たる南方占領作戦(石油確保のための)を米艦隊に邪魔させないようにするために行われた」という誤認識が広まっているからだ。偉そうに言いつつ、実は私もそう思い込んでいたときがあったのだが。

この理由は一見、非常に理にかなっているように見える。聞けば「なるほど」と多くの人が納得してしまうだろう。しかし当たり前のことだが、その行動についてもっとも理にかなって見える理由が、史実としてその行動を起こした理由だったとは限らないのである。また実際に真珠湾攻撃の意義を南進支援だと認識していた海軍幹部もいたのは事実だが、命令を受けた実行者がそう認識していたということは、決定者もまたそう考えて決定したのだということを意味してはいない。そして「理にかなって見える」ことは、本当に「理にかなってる」ことともまた別である。

実際、この南進支援説は、当時の海軍首脳の口にはほとんどのぼっていないのである。真珠湾攻撃の発案者たる山本五十六連合艦隊司令長官などにしても、「開戦いきなりの大打撃を敵に与え、米国民の士気をつぶしてしまうのだ」とか「南方進攻中に米艦隊に日本本土を襲わせるわけにはいかない」とかで、「真珠湾奇襲をしないと南方進攻などおぼつかん」とは言ってはいないのだ。(米国民の士気をつぶすことによって大東亜共栄圏を完成させることができるという意味のことは言っている)

南進支援説が出されたのは、山本の部下と軍令部の参謀、すなわち、艦隊(現場部隊)の参謀と中央指揮組織の参謀のあいだで真珠湾攻撃の是非が言い争われた場においてでであった。つまり推進派である現場部隊のほうは、「真珠湾を叩いておかないとおちおちと南方作戦もできん」といい、反対派の軍令部のほうは「真珠湾を叩かなくとも、マーシャル諸島などがあるゆえ、米艦隊は容易に遠く東南アジアまで進出してはこれない。ゆえに、途中でバレて奇襲が失敗に終わるのみならず、こちらのほうが打撃を受ける可能性があり、さらには当日敵主力艦がいるという保証もない真珠湾作戦などやる必要性はほとんどない」と反論したのである。(

)これは論理的にも、結果的にも後者が正しかった。実際、艦隊側はこれを論破できなかったし、事実的にも、真珠湾で撃破できたのは、旧式戦艦4隻だけで、高速空母のほうは近くの島に飛行機を運んでいたので日本海軍はこれに傷をつけることはできなかった。これら米の旧式戦艦は日本の扶桑型よりも鈍足で、無事であっても日本の南進に対し何もできなかっただろう。無傷だった高速空母にしても、日本軍の南方進攻中は、マーシャル諸島やせいぜいラバウルに軽い一撃離脱攻撃を加えることしかできなかったのだから、「真珠湾攻撃が行われたから日本の南方作戦はうまくいった」わけでもなかったわけである。つまり、現場部隊側が並べた真珠湾攻撃をやるべき理由は、「南方作戦のため」というのも含めて、「どうしてもやる」という前提での強弁の面が強いと言わざるを得ないのだ。実際、彼らが「絶対にやるべきだ」と譲らなかったので、軍令部も折れざるを得なくなり、真珠湾攻撃は決定されたのである。

もちろん、開戦いきなりの奇襲をかけるのは大きな戦果が見込めるのだから戦いのセオリーだし、それがこれからのあらゆる作戦をスムーズに行かせる補助となるのも当然のことである。しかし、その作戦が危険な賭けだとしたら、やるべきかやらぬべきかの天秤にかけられる。そして真珠湾の場合は、上述の通り、やらぬほうが理屈としてはまさっていた。少なくとも「南進のために」という理由は推進派の強力な論理武装とはならなかった。以上のことから、史実として、明らかに南進支援は真珠湾攻撃をやった真の理由ではない。これを真珠湾攻撃の理由とするのは完全に誤認識なのである。

では、このような危険な作戦を艦隊側が「やる」といってきかなかった真の理由は何だったのかというと、ここから先は推測とならざるを得ない。上述の山本五十六の言葉にしてもとても納得しがたいもので、同じく「やる」が前提の後付け理由にしか見えないからだ。ならばこれ以上、資料をまさぐってもムダで、状況や当時の日本軍人の心理から推測するしかないし、推測のほうが有効である。ちゃんと目的言語化(文書化)して理由を述べられなかったということは、結局、心理的な理由のはずだからだ。

そして、これはそれほど難しく考えずとも直感でわかる。もう海軍の現場部隊の気持ちは、戦争ハイモードになっていたということだ。日中戦争はすでに4年も前に始まっていたとはいえ、それはほとんど陸軍の戦争であり、海軍は航空隊が参加してはいたものの、軍艦の出る幕はまったくなかった。つまり対米戦争は、海軍が日本海海戦以来、36年ぶりに行う海戦、久々にスポットライトを浴びる大舞台だった。しかもまちがいなく日中戦争以上の、いや、日本国史上最大の戦いになるものであった。それがゆえに頭がテンパっていたし、また、テンパる必要を特に現場部隊は如実に感じていた。そういうことだと思われる。

これには加えて、アメリカという大国相手だったからこそ余計に闇雲に突撃していったというのもあるかもしれない。また山本が言ったように1年しか有利には戦えないがゆえにいきなり賭けに出たというのもあったのかもしれない。が、おそらくは同規模の相手、また長期に同等の戦いができるにしても、やはりこの奇襲は行われたと思われる。つまりは海軍は、久々の大海戦、主役の番が回ってきたがためにもう興奮状態になって、今手の内にある最新の武器(6隻の高速空母)を最大限に利用した大胆な作戦をやりたくてしょうがなくなってしまったという単純な理由が本当なのだと思う。作戦の失敗の可能性など目に入らなくなったことも、この理由なら納得がいこう。

つまりは、ほとんど子供の喧嘩の勢いづけゲーマー的ハイな気分。実際、「日本の本命作戦たる南方占領作戦を米艦隊に邪魔させないようにするため」という「一見大人なロジック」が流布しているのも、それゆえではないか。真の理由は実に単純な子供っぽいものであったこと。誰もそんなことでこんな重大な行動を決定するなんて信じられないし、日本軍びいきの日本人としては信じたくもないのだ。

しかし寺山修司が言ったように、戦争というものは畢竟「子供の戦争ごっこ」と同じなのが本当ではないか。

                         2026.4.1

 

ネット右翼の正体~イジメと共通するその執拗さ

私にとって、ネット右翼ほど不思議なものはない。私の周囲には、ネット右翼みたいなことを言う人間は誰ひとりとしていないし、私個人もネット右翼のような心情は持っていない。だから、いったい誰が何の目的でネット右翼をしているのか、想像もつかないのである。

当初は、国がまたぞろ国民に愛国心を植えつけんと躍起になっているのだと思った。が、ネット右翼の言っていることには、日本礼讃の面は薄く、中韓の誹謗にばかり終始しているため、どうやらそうではないと考え直した。しかし、中韓の悪口を標榜するとなると、いよいよそれに何のメリットがあるのか理解できない。

それが、ここ最近、出版されたネット右翼に関する本や、いろいろ見聞を重ねていると、なんとなく像が浮かび上がってきた。

どうも、ネット右翼というのは、自分たちは会社のため、国のために尽くしたのに、あとから来た中韓がいいとこどりをして伸びてきて、簡単に日本に並んだ、日本の脅威になった、そういうことで、いわば中韓が自分の人生を意味ないものにしてしまった、それがために中韓を恨むことに決めた、それを攻撃することで鬱憤晴らしをすると決めたと、そういう人種らしいのである。

確かにそう考えると、辻褄があう部分がたくさんある。

まず、「中韓はずるいこと、虫のいいことばかりしている」というのが、ネット右翼の最大のお題目なわけだが、これは、中韓が、日本含めた先進国の成果から出発できたがゆえに、急速に伸びることができたという話と符合している。

またネット右翼は「左翼」という言葉をよく使う(揶揄してパヨクともよくいう)。自分たちが「右翼」と呼ばれるものだから、それに対する反撃で「左翼」という言葉を使うのだろうが、私の感覚では、1985年ソ連が崩壊したときに20歳以下だった人間、およびそれ以降に生まれた人間は「左翼」という言葉は、知識で知っていても、ほとんど使わない。もう物心がついて政治意識が芽生えたとき「左翼」は実体として存在していなかったからだ。右翼という言葉のほうは街宣車が走っているので使い続けたが。ということは、おそらくネット右翼というのは高齢者である。実際、高齢となった親がネット右翼になったという話がここ数年になって多く出てきた。本も数冊出ている。(

)ところで、そういった本をみると、ネット右翼というのは、案外とマジメに生きてきた人が多いようだ。ネット上で有名なあるネット右翼に会いに行った人は、そのネット右翼が孤独がゆえにひねくれて、ネット右翼になったのだと想像して会いに行ったのだが、相手の家に実際に行くと(ただしインターホン口で追い返された)、ちゃんと結婚して子供もおり、普通の家であったとの由。おそらくは外見も普通の人なのだろう。

しかしこういうマジメ人がネット右翼の実像ならば、彼らの中韓誹謗の執拗さ、そしてネットでのみ、それを言うことも、かえって納得しやすいものになってくる。つまり、マジメな人だけに、他人(他国)の悪口は顔と名を出しては言いにくい。そこで匿名であるネットでそれを言う。そういう理屈が見えてくるからである。

しかし、自分の人生を価値ないものにしてくれた恨みだとしても、ネット右翼のはこびりかたは異常な気がする。いや、むしろ、しょうもないことに固執しているだけに、中韓への呪詛が本心なのではなく、もうひとつ別のファクターがその動機の中心としてあるのではないかという気がする。それは何か? 私は、中学生のイジメにも似た、「この相手を恒常的な攻撃の対象とすると決めた」という心的メカニズムがそれではないかと思うのである。

そう、「決めた」ということ。いじめにしても、ある子が憎くてしょうがないというより、あるときに、その子を今後の攻撃の対象と「決めた」がために、執拗ないやがらせとなり、また周囲にも影響を与え、エスカレートしていくのではないのか? いわば、くじ引きで「決めた」人身御供みたいなもの。人身御供だって、人々の精神安定のために行われたものである。ネット右翼も同様に中韓を誹謗することによって会社や国に自分の若さを使いすぎたという悔恨を慰めようと「決めた」のではないのか?

もしそうならば、本当に彼らが糾弾せねばならないのはむしろ中韓ではなく、皮肉なことに自国、日本のほうなのが本当となるだろう。学校でいじめを行う生徒の本当の不満の根源が「学校」であり「国」であるのと同じように。しかし彼らの年齢ではもう手遅れなのだ。あとは中韓誹謗にしがみつづけるしかない。ネット右翼の中韓誹謗の執拗さはここに根があるのではなかろうか。

とここまで書いたものの、冒頭に申し上げたように、私には、ネット右翼がなぜ、ああいうことを言い続けるのか、直感的には、まったくわからないのが本当のところなのである。だから以上のこともまったくの推測外れかもしれない。

 

日本人は「こわがり」すぎ~選択制夫婦別姓

夫婦別姓、私は、この話題になると非常に奇異に感じることがある。それは、反対している人が意図的、感覚的問わず「これからはすべての夫婦が別姓になる」というふうに受け取ってるように見えることだ。「選択制夫婦別姓」なのだが。

どちらにせよ、私には、自由選択制度にこれだけ反発するのは、日本人の「こわがり」さの反映に思える。日本人は、全体が大きなものに一律に律されていないと、社会秩序が壊れるとすぐに不安になってしまうのだ。

この日本人の警報センサーの超敏感さ、そしてすぐに騒ぎだす体質は、今後も変わることはないだろう。というのも、日本人は、畢竟それが「いいこと」だと信じているからである。「義務」いや「使命」とすら考えている。それは日本を守ろうとすることだ。自分たちを守らんとすることだ。なんで悪いことであろうか?

しかし本当に「いいこと」なのだろうか。この考えは、ともすれば「自分の安全さえ保証されればいい」というエゴイズムに堕しかねないものである。

いや、日本人はそれがエゴイズムであることを知っているのかもしれない。だから、それは正しいことなのだと自分に言い聞かせるために「✕✕国は日本を侵略しようとしている」とか、「日本人は特殊である」とか言い出すのではないか。こういう弁明も「こわがり」の特徴だ。

恐怖心というのは、上述したとおり「危機を事前察知するセンサー」であり、人間が生きていく上で必要なものだ。しかし、「必要以上にこわがる」と「こわがり」と呼ばれる。どこまでが「必要」というのは難しい話だが、「そうすることにより『本来の目的』が阻害されるほどこわがってしまう」のを「必要以上」といっていいだろう。そして人間においての『本来の目的』とは、喜ばしい、あるいは、充実した生をおくることではないのか。(

)日本人の「こわがり」度はそれを阻害するまでに至っていやしないか。もっとも、日本人は、喜ばしい、充実した生をおくることを人生の目的とは考えていないのかもしれないけど。