たまきちの「真実とは私だ」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

最後通牒はハル・ノートでなく日本の乙案の方だった

日本がアメリカとの戦争を決意したのは、ハル・ノートという過酷な条件の最後通牒をつきつけられたからだ!

といまだに思っている人が多いが、これは大の字が10コくらい並ぶ大ウソである。

真実はこうなのだ。

日本は1941年11月5日の御前会議で、1か月後の日本時間12月1日0時までに(以下すべて日本時間)日米交渉がまとまらないなら、12月初旬に米英に武力行使を仕掛けることと決定した。このとき日本がアメリカに渡すために用意した、譲れるギリギリの提案は「乙案」と呼ばれ、(甲案もあったがこれは最初から完全ダメもとのものであった)この乙案を日本は、11月21日にワシントンでハル国務長官に提示した。つまりこれをアメリカが、9日後の12月1日0時までに飲まなければもう開戦は決定だったのである。

ところが、アメリカは暗号解読で、乙案を受け入れなければ開戦という日本の腹づもりを知っていたのだ。そしてアメリカの、乙案に対する回答は「ノー」であった。その「ノー」は11月27日に、日本大使を呼んでハル国務長官から告げられた。つまり、この時点で日米とも「これで戦争だ」となったわけである。そのときハルが同時に渡した「アメリカの条件はこうだ」というのがハル・ノートである。

お分かりだろうがこの状況、日本の乙案への「ノー」がすべてなのであって、ハル・ノートはどうでもいいものなのである。ただ「ノー」の返事だけだと暗号解読できてることが日本にバレてしまうから、ハルもこちらの案を提示する必要があっただけなのだ。だからハル・ノートの要求は厳しいながらも期日、範囲が不明確で適当な、元のアメリカの一方的要求であるところの原則論(もはや他国への侵攻は認められる時代ではないというもの)にもどったものなのであり、また公式文書ではない私的案の覚書で間にあわされているのである。

だからハル・ノート最後通牒でもなんでもない。最後通牒とは「平和的交渉を打ちきり、最後的な要求を示すとともに、それが認められなければ、自由行動・実力的行使をすることを述べた外交文書」(三省堂 新明解国語辞典)のことだ。上記の経緯では、日本の乙案のほうが、最後通牒になっている

ハル・ノートが日本を追いつめた最後通牒とされているのは、かの戦争、日本に非はないのだとしたい人間が、そういうデマを日本人に浸透させようとした結果である。現代日本人も日本は悪くないと思いたいだけにそれを簡単に受け入れてしまった。「ハル・ノート」というよく分からない横文字単語も効果があった。今日では「ハル・ノート」という言葉は「日本は悪くない。アメリカが悪い」という意味の呪文になっているといえる。

このデマの浸透に大きな貢献をしたのは、日本の教科書であった。

上図は、私の家にある日本史教科書(東京書籍)と日本史図表(第一学習社)からの抜粋なのだが、どちらも、このどうでもいいハル・ノートを前面に出して記述している。特に教科書のほうは、「11月26日にアメリカのハル国務長官が強硬な提案を示すと、12月1日に開かれた御前会議では12月8日の開戦を決定した」とまるでハルノートの強硬さがために日本は開戦を決定したかのように書いている。

しかしより大きなゴマカシは期日だ。教科書・図表とも、真珠湾攻撃の日をはじめ、すべて日本時間で書いているのに、ハル・ノート回答」だけ、11月26日とアメリカ時間で表記されているのである。上述したようにハルの回答は日本時間では11月27日なのだ。下図の年表では、真珠湾攻撃ハルノートをのけて、月までしか書かれてないのに、この2件だけ日まで書かかれている。

なぜこのようにしているかというと、おそらくは、真珠湾攻撃の奇襲艦隊出撃が日本時間の11月26日だからである。つまり史実は、ハル・ノートが手渡される前に奇襲艦隊は出撃しているわけだが、ハル・ノートを26日とすることによって、ハル・ノートのために日本艦隊は出撃したという「ハル・ノート最後通牒説」に沿った目くらましができると、この教科書作成者たちが考えた、いや、そう書けと文部科学省から指導があったからだと考えられるのである。厳密に調べればひっかかるはずのない手なのであるが、誰しもがそこまで調べるわけではない。「定説」というのはこうして広まっていくのだ。

ちなみにこれは現在の一般書籍でも同じであるらしい。下記のものは2019年出版の某有名歴史著述家が編んだ本であるが、ハルノート真珠湾攻撃の艦隊出港を同じ11月26日とし、しかも、ちゃんとハルノートを先に書いてあるのである。やれやれ。

こんな嘘を平気でついているのであれば、よく言われる、「真珠湾攻撃前の30分前にハルに渡すはずだった交渉決裂宣言(実質の宣戦布告)が、日本大使館員の不手際と怠慢で攻撃後になったのはウソで、最初から日本は相手に迎撃準備をひとつもさせないために、わざとそれを遅らせたのだ」という説も本当ではないかと疑惑がもたれよう。そもそも、大使館の不手際で遅れたなら、このときの大使館責任者は切腹もののはずなのに、のち出世していることからも、わざと遅らせたのを疑うなというのは無理である。すでに日本艦隊は12日もかけてこっそりハワイに近づいていたのだし、また、交渉決裂宣言が攻撃開始の30分前に手わたされていたとしても、その12日間、交渉は続けられていたのだから、アメリカが「卑怯なだまし討ち」という名目につけこんで国民を奮起させることができたのには変わりはなく、つまりは交渉決裂宣言の手交は、攻撃開始前だろうが後だろうが大した違いはないわけで、日本側からすれば、より奇襲が確実となる後者をえらんだということにすぎないのだろう。通告が間にあっていたら卑怯なジャップという汚名をこうむらずに済んだのになどというのも、「ハル・ノート最後通牒説」同様、意図的に流されている身びいきの自己欺瞞にすぎない。

しかし「日本スゴイ」の無邪気な自国礼賛がいまだまかり通っているところをみると、これらの自己欺瞞も簡単に払拭できそうにはなさそうである。

(補足※ なお、日本艦隊が11月26日に出撃したのは、アメリカ時間の12月7日、すなわち12月の第1日曜日に奇襲を行うつもりだったからである。日曜日はより油断しているからだ。すなわち第1日曜日が12月7日より前だったら日本艦隊は11月26日以前に出撃していた。11月中に日米交渉がまとまったりしたら艦隊は引き返すこととなっていたが、これはもちろんアリバイ作りにすぎない。日本側は乙案をアメリカが飲むなんて最初から思っていなかったのだから)