たまきちの「真実とは私だ」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

天皇は今も昔も権力者のためにある

なぜ日本はものごとを変えることができないのか。なぜ、変えるのが苦手であり、変えたとしても遅いのだろうか。直接的な理由は簡単だ。ものごとを変える指示を下すべきトップリーダーなる者がいないからである。

なぜトップリーダーがいないのか。それはトップリーダーがいたら困る人たちがいて、彼らがそのような体制が成立するのを終始妨害しているからである。そう、終始だ。あまりに終始やっているので、それがトップリーダーが現われないようにする策略だとは誰も気づかないほどである。

トップリーダーがあらわれたら困る人たちというのは、省庁、企業業界ふくめた各種団体である。各種団体は既得権益を持っている。真のトップリーダーがあらわれたら、「この団体はもう時代的に要らない」と言って整理するかもしれない。各種団体が何かしようとしたら「そんなことは国民の利益にならない」といってやめさせるかもしれない。「大阪万博は中止」「リニアも中止」「NHKスクランブル化」とか言い出すかもしれない。彼らはそれを恐れるのである。

ただ各種団体ばかりが利益をあげて国民に還元しないでいたら、国民が怒りだし、トップリーダーを求める声が出てくるかもしれない。なので各種団体も、国民を飢えさせないようにくらいは利益を配分している。もっともこの配分もだんだんしみったれてきているが。

しかし、このほかに、もうひとつトップリーダーがあらわれる体制にならないように各種団体が大々的にやっていることがある。

それは天皇崇拝の啓蒙だ。天皇こそ日本のトップ(さすがにリーダーという言葉はつかない)としておけば、国民投票による大統領制などが出現することはないだろうからである。だから、彼らは天皇尊いものだとしてそれを強調する。天皇は日本の象徴、天皇なくして日本なしというふうに国民を洗脳する。強要する。これらは強要だから、暴力をふるいたい人間とも相性がいいのはご存じのとおりである。そうして各種団体のおこぼれにあずかりたがる人も、進んで天皇崇拝の言葉を紡ぎだしたりする。本当に崇拝しているかはもちろん別の話である。加えて「日本は権力を一手に握るトップが不要な国」とか、「和をもって決めるのが日本の伝統的なやり方」とかいった懐柔策的日本人論なども広める。先ほど言った「真のトップリーダーが現われないように終始妨害している」ということはこういったことを指す。

こう書くと天皇をそんなことに利用するとは許せんなどという人もいるかもしれないが、現代における天皇の存在意義はこのことに尽きるというのが本当のところではなかろうか天皇を祭祀王とする説もあるようだが、祭祀なら神官でよく、別に世襲の王家でなくてはならない必要もない。もっとも歴史的に俯瞰しても、天皇自身は支配者ではなく、支配者の利便のために存在させられてきた存在であるのだから、各種団体――というかつまりは現代日本の支配者層――によるこの天皇の扱い方は、伝統的なものといえる。

トップリーダーがいないというのはある意味国民にとっても楽な面はある。投票に行くという手間のみならず、国民ひとりひとりが常にその統治体制の真っただ中にいて自らが政治に参加する状態にいなければならないというのはなかなか面倒くさい。民主政治であった古代ギリシアでは、労働は奴隷にさせていたが、市民は市民で統治と国防に義務があり、これはこれで大変なものであった。統治義務を果たさなくても社会がうまく回転するのであればそれでいいじゃんと考えてしまうのも当然ではある。しかしそうなってしまうと、冒頭のとおりの状態となってしまうのだ。すなわち「日本人はものごとを変えることができない」、「変えたとしてもやたら遅い」と。

ならばやはりこのままで本当にいいのかという疑問は残る。社会、世界の変化が大きく速くなっていく現代、ものごとを変えることができない国が、臨機応変に対応できる国に抜かれていくというのは当然というものだからであり、その弊害はすでに出ているからである。それがどこかで命取りにならないとも限らないからである。