たまきちの「真実とは私だ」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

日本から〈日本〉を駆逐せよ!~日本因数分解論

 目   次

①日本はまず因数分解して捉えられなくてはならない

〈日本〉なるものの歴史 ~または日本国号論

〈日本〉なるものの定義 ~または日本人論・論

〈日本〉なるものの問題点

予想される反駁への回答

 

 ①日本はまず因数分解して捉えられなくてはならない 

いきなりはっきり言うが、現在多くの日本人が閉塞感を持ち、自分の人生に喜びを見いだせないのは、〈日本〉に縛られていて、そこから抜け出せないからである。自己啓発本を読んで「よし、自分の人生を変えるぞ!」と思ってもすぐ元の状態に引き戻される。それは〈日本〉というものの重力が強すぎるからなのだ。しかし誰もこの根源的足枷であるところの〈日本〉について考察、分析をしようとしない。はっきり言えば、あきらめてしまっているのである。

 
日本人が〈日本〉という条件から抜け出すことができないのは当たり前、仕方がないことじゃないかと言われるかもしれないが、今ここでいう〈日本〉とは、「日本という東アジアにある列島の国」というもののことではないのだ。私が今、〈日本〉と〈〉をつけて表記しているのもそのためである。
 
では〈〉つきの〈日本〉とは何だ? それは日本人にとっても実は不可解なものであり、ゆえに「日本人論」などというそれを考察するようなジャンルまでが発生しているものなのである。このことは〈日本〉が日本人にとっても、生来のものではない「異物」であることを意味している。
 
つまり、「日本」はふたつある。単純に「国としての日本」と、「国ではない特殊性を標榜されている日本」と「こんな考えを持つ奴は日本人じゃない!」といわれるときの「日本人」というのは、後者の日本に従っている者を言っているのではないか? 
 
しかしちまた日本人論と呼ばれている本の中にも「日本とは何か」という問いに明確な定義的答を出している本はない。たいていの「日本人論」は「日本人はこう行動してきた」という事実、あるいは「こう行動するのが日本人である」と述べているにすぎず、論というよりほとんどが人生相談みたいなものばかりである。
 
なぜ、「日本」の明確な定義が出せないか。それは、われわれはふたつの日本を単体とみなし、その混合物を「日本」と捉えているため、「日本とは何か」と問題提起しても、論じるべき真の対象、つまり「国ではない特殊性を標榜されている日本」なるものを正確に照準に浮かび上がらせることができないからである。だから簡単にこのふたつの日本を一体のものと見せたい者らに攪乱もされてしまう。われわれが「日本」という国名を口にすると、そこには、いつも「国ではない特殊性を標榜されている日本」が執念深い亡霊のようにまとわりついてくるのだ。
 
これを除霊する必要がある。そのためにまずこの霊の正体を知ることである。そのために、まずわれわれは「日本」が「国である部分」と「国ではない特殊である部分」に分解できるという認識を持たなくてはならない。つまり「日本」は因数分解される必要がある
 
この『日本因数分解論』は、〈日本〉、つまり〈〉付きの〈日本〉――「国ではない特殊性を標榜されている日本」――とは、とどのつまり何なのか、そしてそれを今後どうすればいいか、という問題に対する私の答案である。
 

***

 
〈日本〉なるものの歴史 ――または日本国号論
 
「国」と「国ではない特殊性を標榜されている要素」とを一体化させ続ける詐術が通ってきたひとつの理由として、この国が自閉しやすい、他国の干渉を拒みやすい島国であったからなのは確かだろう。しかしそれは島国の宿命であったわけではない。地理よりも重要なのは、江戸時代の鎖国政策にみられるように、自閉の意志のほうだからである。島国という現実はその意志の実行に都合の良い条件だったにすぎない。
 
だから〈日本〉とは何かを明確にするにあたって、まず日本の自閉の歴史を追ってみようと思う。事実それを追っていくと、日本の歴史は、何度も同じ事件を迎えては、自閉を繰り返すという方程式に支配されていることが分かるのである
 
〈日本〉が誕生したのは7世紀の終わりごろということで、ほぼ研究家諸氏の意見は一致している。しかしその誕生経緯となると謎が多い。大体においては西暦663年、朝鮮半島南西部で起こった「唐+新羅連合軍」と、「百済+倭連合軍」による白村江の戦いにおいて、敗北を喫した後者が列島に逃げ込み、興した国だというのが定説になりつつある気もするが、具体的な過程はほとんど分かっていない。「日本書紀」も事実については口を閉ざしている。
 
それでも、唐帝国の侵略に備えて列島内の団結を高めるという目的が、〈日本〉建国の第一にあったという意見は、かなり共有されてきているようだ。唐は中国の歴代王朝中、第3位の版図を持った大帝国であった。日本国ができたばかりの7世紀も終わらんとする当時、博多を中心に朝鮮半島に近い海岸には水城が築かれ、防人と呼ばれる守備兵が唐の侵略に対する防衛隊として置かれたことなど、今さら説明するまでもないだろう。
 
そしてこのときが〈日本〉自閉の第一幕目なのであった。このときの体制がほとんど鎖国に近いものなのだ。つまり〈日本〉は、その誕生理由からして、外国への脅威から身を守る自閉的な孤立を目的として生まれたのである
 
自閉する一方で〈日本〉は唐にならい、大王(おおきみ)を天皇と呼び変え、史書を編み、律令体制を整え、さらに唐にならった都市を整備し、職工を大陸から招いて奈良に世界一の鋳造大仏まで作る。これら一連の大事業は〈日本〉建国が、唐帝国の向こうを張るものであったことを明かしている。
 
閉じこもりやすい地形は、内部統一をもしやすいことを意味する。それまで列島には列島を統一している国はなく、倭国と呼ばれた国も列島の西側の一部を支配している国に過ぎなかった。しかし〈日本〉が建国されると〈日本〉に列島内のすべての国は吸収され、やがて意図的にシャッフルされ、その記憶を失わされていった。列島はすべて〈日本〉に統一される。
 
つまり、〈日本〉は、単一民族国家として自然発生的に生まれた国ではなく、また最初からそこにあったものでもなく、きわめて人為的に出来た国である。そのもうひとつの傍証は、〈日本〉という国号にある。現在でも〈日本〉の読み方は、「ニッポン」と「ニホン」のふたつがあるが、これは国名として〈日本〉という文字(しかもこれは外国語である)がまずあって、音声のほうがあとからついたためでほぼ間違いないだろう。言語というものは音声が本体であり、文字は音声を音声以外の媒体で表すためにのちに発明されたものにすぎない。にもかかわらず、文字の国号が音声より先にあったとなると、国自体が自然発生的でなく、人為的に生まれたものであると考えてよいのではなかろうか。
 
日本書紀には〈日本〉は「やまと」と読むべしと注釈内に書かれてはいるのだが、この読み方は事実的にも読み方的にも強引であったために広まらなかった。「事実的にも」というのは、古代この列島の国を指して「やまと」という音声で呼んでいた証拠がないからである。当時「やまと」は王朝所在地である奈良周辺のことを指していたにすぎなかったのではないか。今では「やまと」は日本の古代名だと思っている人が多いが、これは江戸時代後期の国学者本居宣長が、漢意(つまり外国の精神)に染まっていないこの国の純粋なあり方を追求していたさいに見つけだしてきてアピールした名称にすぎない。その国学もまた、鎖国の中にありながらも欧米という対外的な脅威に対し、日本は独自のアイデンティティを持たねばならないという危急性から拡大、発展していったものであった。
 
古代にもどろう。唐帝国へ対抗するためにできた〈日本〉だが、実際には列島への侵略行為はないままに唐は滅んだ。文字通り世界の動乱に影響されぬ平安時代が訪れる。そんな〈日本〉の安穏とした「自閉」を、次に脅かしたのは元で、今度は本当に侵略行為があった。しかし元軍は日本軍の集中防御と台風とで壊滅した。
 
しかし、その次の海外からの脅威、すなわち、ポルトガルとスペインのキリスト教布教を尖兵とした侵略は、精神面での侵略手段もたずさえてやって来た。当時、驚く数の日本人がキリスト教に帰依しているが、ザビエルの書簡によれば、これは日本人が初めて天地創造という根源を知らされて納得したからだという。これは、日本人に〈日本〉すなわち〈日本人〉の意識が薄い場合、相手が外国人であろうと納得がいけば、簡単にそっちへなびいてしまうことを明かしている。このことは、第二次大戦で米軍の捕虜になった一部の日本人が、アメリカの豊かな物資による待遇のために、進んでアメリカに協力したのと似てるかもしれない。「生きて虜囚の辱めを受けず」という押しつけにしても、そこから日本人の〈日本〉信仰が瓦解していくのを恐れたがゆえの規則であったのだろう。この規則を作った者は〈日本〉の薄っぺらさ、というか、無理に押しつけたものであるから簡単に消え去るものであることを知っていたのだ
 
どちらにせよ、安土桃山時代の日本の権力者たちの目には、多くの民衆がキリスト教に染まっていくことは、自分たちの地位を脅かす侵略行為と認識されたことは間違いない。大名は最初はキリスト教を武器調達などで利用しようとしながら、天下を握るや追放するに至った。つまり、戦国時代もまた、外国を真似て自国を強化し、外国の脅威に対抗した〈日本〉誕生時と同じ展開が繰り返された時代だったのである。鉄砲は言わずもがな、天守閣も西洋の城を模したものであるし、これはあまり指摘されることがないが、江戸時代初期に流行った武士の殉死についてもキリシタンの殉教の影響があるように思われる。つまり死を怖れぬキリシタンの強さを真似た。それまで武士には死んだ主君を追って死ぬという作法はなかったのだから。狭いところに閉じこもって飲食をふるまう侘び寂びの茶道は、西欧の脅威にさらされた時代における、かつての平安鎖国時代への郷愁反動とも考えられるが、これまたキリスト教聖餐式の影響があった可能性が言われている。狭いところで粗食に甘んじよ。まさにこれは鎖国日本の在り方そのものではないか。千利休が秀吉に切腹を命じられたのも、鎖国的平和主義者である利休が、秀吉の世界制覇の野望を諌めたからではなかろうか? 朝鮮出兵がなされたのは利休の切腹の翌年であった。そう、このときもまた〈日本〉誕生時と同じく、対外戦争が繰り返されたのである。そしてまたも敗れ、豊臣家に代わった徳川幕府鎖国を実行し、自閉もまた繰り返された。
 
現在の日本人のメンタリティが徳川時代に作られたというのは、大方の意見が一致している。それはこの時代の自閉の仕方が、今までより段違いに強力なものとなったためであろう。檀家制度によって全国民は仏教に帰依させられ、完全にキリスト教は排除された。海外渡航も、海外からの帰国も禁止、外国の難破船を助けるのも禁止。他国との交流は幕府が許す中国、朝鮮、オランダの一部だけ。鎖国を今後も維持するには、地形だけに頼っていてはダメで、こんどは、「制度」にも頼らなくてはならなくなったというわけである。
 
しかし海外ある限り、脅威はふたたび来る。最後の脅威は言うまでもなくアメリカだ。アメリカは今までの外国と違って日本進出に本気だった。今までの日本は外国の大国から見たら、極東の遠い、何も資源のない国であったために植民地化に熱心になられなかったが、アメリカはアジア進出の足掛かりとしてどうしても日本が必要だったからだ。これは太平洋を横断できる見通しがついたためもある。それまではペリーにしてもインド洋経由で日本に来ていたのだ。反対側から外国が来航できることになったことにより日本の地政学的価値は変わったのである。アメリカは脅迫的に日本に開国を要求する。そして、またしても日本は脅威を与えるその国を真似て、その脅威に対抗し、海外派兵戦を行って負けた。
 
ただ今回はそのあと、鎖国状態には入ってないところがこれまでの法則を外しているように見える。いや、やはりしたのである。〈日本〉が大戦後から今に至るまで、なかなか外国を受け入れないでいることは、いちいち例を挙げるまでもない。いまだ〈日本〉は鎖国しているのだ。しかし「鎖国と口には出さない鎖国体制」を続けることは、交流相手の外国や、主権を持ったということになっている国民に疑惑、不信が生じさせるのが不可避である。また「鎖国している」と言っても、外に開かれてしまったわけだから、外の世界との混血はじわじわと進行しはじめる。この状況でどうやって鎖国しているというのか? 地形、制度の次には、思想を持ち出したのである。こうして誕生したのが実はあの排他独善的な「日本人論」なのだ。それは、物理的鎖国、制度的鎖国に続き、新たに加わった精神的鎖国とでも言うべき第三の鎖国手段なのであった
 

***

 
〈日本〉なるものの定義 ――または日本人論・論
 
「日本人論」の本というのは、大体パターンが決まっている。まず、歴史の古さ、GDPの高さ、犯罪の少なさなど、現時点での日本の、世界に比してマウントをとれるところをあげて、日本人の自尊心をくすぐるところに始まり(このときに聞きかじりの先進他国の問題点を恣意的に並べ立てることも多い)、日本はこんなに素晴らしい国なのだから日本人である限り、この国に文句を言うのは間違っていると暗に諭し、最後には、こんな素晴らしい国こそが世界の究極の理想なのであり、あるいは日本が世界をリードしなければいけない、あるいはこれから世界は日本化していくなどの結論に至る。露骨か、婉曲な表現をとるかの違いはあれ――。この結論が読者をして国民一丸の忠勤に励ませようとの目論みであることは言うまでもない。いわば「日本人論」とは、日本人ならこう考え、こう行動すべきだという、『日本人のための行動指針書』なのだ。日本人論の本が「論」などという割に、学問的ではなく、人生相談の答え臭くなるのはこのためだ。
 
事実、このような書籍は、個人としての日本人が日本社会と衝突したとき、あるいはそのあり方に疑問を抱いたとき、特に青年期に手に取ることを見越して出版されている(私もよく読んだ)。それを読むことによって、人々は理不尽なこの社会との正面対決を避け、そんな社会に従い、流される人生に納得を見出すのである。
 
「日本人論」の出版は、文明開化と同時、つまり明治時代から始まっている。〈日本〉が世界の中心であり、世界の祖でもあり、それゆえに〈日本〉が世界を征服するのが当然であるといった調子のもので、この考えの基盤自体は、江戸時代後期に平田篤胤佐藤信淵によって誕生していたものであるが、その荒唐無稽さが頂点に達したのは対米戦の末期であった。そのときのトンデモ本は、『「日本スゴイ」のディストピア』(早川タダノリ著)などの本に詳しく紹介されている。それらは言うまでもなく、国家総動員のための精神的指南書であったわけだが、大戦後の「日本人論」も同じようなもので、結局のところ、これらはすべて、秀吉の朝鮮出兵や(秀吉も世界を統一するつもりだった)大東亜共栄圏と同じく一種の世界席巻思想なのである。国が外に開かれているとき、なお鎖国状態を維持しようとする矛盾は、世界制覇という方向性に解をみいだして何の不思議もない。つまり、鎖国と世界制覇は同じもの、〈日本〉という一枚のコインの裏表なのだ
 
すなわち、あの特殊であり、謎とされ、論じ続けられている〈日本〉という概念の第一義は、自己だけで完結するという状況の実現なのである。すなわち、〈日本〉とは、自分たちの対外的、および対内的安全を確保するために、そうあろうと見せかけようとする力が常に働いているところの、国の形を借りた観念的な完結体のことである。これが私の〈日本〉の定義だ。
 
「ひとつの完結体」であろうとする力が常に働いている――この定義は、いみじくも因数分解という対応をとらせる必然を逆証明したことにもなった。ちなみに〈日本〉のもうひとつの簡易名称とでもいうべき『和』も、元の意味は「声をあわせる」であり、足し算の答えをそう呼ぶように、ひとつのものにまとめるという意味である。
 
なぜ「完結体」であることを目指すのか。それは「完結体」が、完全に安全である体だからだ。しかし、問題はこの〈日本〉という概念(定義)そのものにあるのではない。これを国というものと結合させる詐術が行使されていること、それが問題なのである。この列島の支配者は、自分たちに都合のいい、この「観念的な完結体」と言う概念を、「国」という別の概念でくるみ、その混合物を「日本の文化」だの「日本の伝統」だの「日本人の気質」だのと銘打ち、避けられぬ、また消すことのできぬ宿命的なものに見せかけて、国民にうまうまと押し付けてきたのである。それを侵してはならない「国」の絶対の精髄であるかのように見せかけてきたのである。この見せかける努力の執拗さは、いまだ舌を巻くほどのものだ。しかも年がら年中言っていなくては崩壊する空中楼閣だから、いつでもどこでも、あの手この手で言い続けている。インターネットなどはそれを流す好媒体で、ゆえにネット右翼なるものが出現することにもなった。
 
「完結体思想」。それは、島国根性などという呑気なレベルをはるかに超えて、一種の宗教として固定化、絶対化し、本末転倒に独立して動き出してしまっている。つまり英国には10しかない島国根性が日本国には30あるから、日本は特殊性が際立っているというのではなく、日本では質的に別の概念が作られて、それが単独で頭上に君臨させられているのである。
 
「完結体思想」は絶対思想だから、他の考え方を許さないし、逃げ場もない。島国であることがこれを補完する。日本人の村八分、いじめ好き、不寛容体質はすべてここに根がある。量的に島国根性とやらが行き過ぎてるのであれば、問題が起こったとき、ある線まで引き下がればいい話になるが、単体として君臨している〈日本〉なるものは、そういうフレキシビリティを持たないのである。それに従うことが、何りも優先される。それさえ守られていれば、政治形態の外見が全体主義軍国主義であろうが、民主主義であろうが、実は何でもいいのだ。〈日本〉人が同じ失敗を何度もくりかえすのもここに理由がある。「完結体思想」にそって行動することが、何よりものプライオリティになっているからだ。失敗や悲劇を起こすことよりも!
 
「完結体思想」というのは一種の誇大妄想だから暴走しかねない。というか何度かしているし、今も小暴走ならいくらもある。そして権力者はいつも「それは日本のためなのだ」という論理にすり替えてしまう。こうしていよいよ〈日本〉は肥大化し、合理的意見など通らない世界が誕生した。これは多くの日本人が身をもって体験してることだろう。理屈、正論が通用することはなく、上位者、先輩の恣意で物事は決められ、そしてそれに下位の者は服従しなくてはならない。〈日本〉では上下関係は絶対にして聖なるものなのだ。それは今も、政治の、企業の、学校の、家庭のそこかしこで見られる。だから、実は日本人は無宗教なのではない。ほとんどが日本教の信者なのである。比喩ではなくて――ゆえに日本は「国」と「宗教」、つまり「日本国」と「日本教」に因数分解できると言い換えても良い。
 
ちまた言われる〈日本〉の神秘、不思議さの正体自体、結局、この上位者の「個人の恣意」というものに収斂されると言っても過言ではない。皮肉っぽく言えば、日本ではものごとは、上位者個人の胸先三寸で決まるから、他者には理解不能、予測不能、すなわちカッコよく言えば、神秘的ということになるのだ。よく外国人は日本人を理解しがたいといい、また日本人も外国人にある種の選民意識をもって「外国人には日本は理解できない」と言うことがあるが、法や理念でなく、個人の恣意でものごとが決まるのだから、理解したくともしようがないのである。この恣意性は〈日本〉というものに毒的魅力を付与することにもあずかっている。「好き勝手にできる」なんて神ではないか! それゆえに素晴らしい。ここに日本人自身が〈日本〉を崇拝する理由もあるのだ。皆が受験競争、出世競争で上位を目指すのもここに根拠がある。先輩後輩の序列が厳しいのもこれが理由だし、女性が抑圧されたままなのもそうだろう。こうしていよいよ悪循環となり、「完結体思想」は根を広げる。
 
〈日本〉は、鎖国時には日本列島の外周をとり巻いて締め付ける。その場合、内にいる構成員には、〈日本〉は外周にあるから見えない。反対に国が外に開けているとき、〈日本〉は、構成員がバラバラに拡散しないよう、構成員の間に凝固剤として広がっていき、その接着力で完結体である状態を目指す。このとき〈日本〉という接着剤は、構成員ひとりひとりにまとわりついているため、構成員には強烈に〈日本〉が認識される。今はこの時代だ。いかにマスコミやテレビが「日本」「日本」とうるさく言っているか見るがよい。場違いな場面であろうと〈日本〉(あるいは日本人)を強調する。それはまるで供給がとぎれると死にいたる潜水遊泳時の酸素みたいに、常にその場の空気をそれで飽和させていなければならないかのように送り込まれる。〈日本〉なるものはその宣伝の供給がとぎれれば、即座に霧散する空中楼閣だからである。〈日本〉のマス・コミュニケーションによる情報伝達は、この「完結体思想」の合格レッテルが貼られなければ、情報として流されることがないほどのバイアスがかかっている。この、常に情報に〈日本〉宣伝を仕込ませる技と、そんなことをしていることのしらばっくれ方のうまさを心得ていないと、この国ではマスコミ関係者になれない。特にNHK電通は無理である。この2媒体はそのためにある団体だからである。NHKは〈日本〉なるものの抑圧を、事後処理的に懐柔するために存在しているメディアだ。(たとえばかつて東京に働き手を集めたりしていたときに故郷への思いを歌う演歌番組でそれを懐柔するなど)NHKの作る番組から優等生的偽善臭が消えないのはこのためだ。

***

④〈日本〉なるものの問題点
ともあれ、最終的な論議の焦点は、現在の日本人が幸福であるか否かにある。
 
もちろん中には、自由を心行くまで享受できるより、多少束縛があっても安全、安定、安心であるほうがいいと言う人もいるだろう。しかし、それが問題にならないのは、その人が自分でそう選ぶことができるときだけの話だ。ところが、〈日本〉の宣伝者、信奉者たちは、日本人は「ひとつの完結体」の中にいるから幸福である、と勝手に断言して、押しつけを正当化している。
 
すべてが「ひとつの完結体」でなくてはならないということは、国民ひとりひとりも完結体の一部であることを強制されるということである。それは、不可避的に個人の自由を大きく阻害してしまう。全面的に「完結体」へ帰属しない限り、その構成員は憎まれ、疎んじられ、ヘタをすれば消される。これについても誰もが先刻承知だろう。
 
このような状況下では、多くの日本人が、日本国が「ひとつの完結体」であると信じる、あるいはそう信じるしかないらしい、あるいはそのふりだけでもして生きていくしかないらしいと感じ始めて何の不思議もない。そして日本人全員がそう行動しはじめたとき、「完結体思想」はその実現に近づく。中でも、もっとも実現に近づかせてくれるものは、戦争である。外国と敵対するということこそ、自国側の完結体性をもっとも確固たるものにすることができるからである。また対外戦争は、内の革命に向かいかねない国民のエネルギーを外に放散する役割を果たす。よく右寄りの政治家が「戦争をしたがっている」と国民に批判されることがあるが、彼らは別に、戦争にゲーム的スリルや暴力行使の快楽を夢見ているのではなかろう。望んでいるのは、戦争という状態が生む国の強固な団結であり、「完結体国家」が最高位で実現されること、およびその安心感なのだ。
 
彼らがいまだに天皇をかつぎあげ、天皇への崇拝の念を国民に強いたがるのもここに理由がある。先の大戦では(ドラマや映画では触れらないが)皆が「天皇陛下万歳!」という言葉のもとに死んでいった。支配者層の人間自身、天皇を本当に尊崇しているかと言ったら、はなはだ疑問なのであるが、そのために国民が死んでくれるものは、彼らにとってきわめて都合のよいものだから、彼らはそれを祀り上げずにはいられないのだ。
 
なお天皇については、中国の皇帝を模倣したと申し上げたが、厳密には中国の天帝を模したものと言えるだろう。天帝とはつまり神であり、天帝が中国を支配する皇帝を決めるというのが中国人の伝統的統治思考である。つまり現皇帝が統治にふさわしくないと分かると、天帝が現皇帝を追い出し、別の皇帝を玉座につけるのである。歴史をかえりみると、日本の天皇はあきらかに皇帝ではなく、天帝の位置にある。だから天皇は日本の統治者ではなく、統治者に利用される存在、実際の統治者の正統性を保証するために、統治者によって存続させられている存在なのが本質である。また、ゆえに神の子孫、現人神とされているわけであり、神ゆえに姓もないし、王朝交代もまたありえない。たとえ実際には交代していたのだとしてもだ。有名な明治天皇すり替え説など別に事実だったとしても驚くに値しない。
 
これほどに強力な〈日本〉教=「完結体思想」であるが、一方で、〈日本〉教に反する精神も、この日本国には顕在化してきている。ここで価値観のバッティングがおこる。そして、このことがいろんな面で問題をひき起こしている。この問題こそが、もっともアクチュアルな問題であることは言うまでもない。
 
たとえば過剰労働時間、及びそれに伴う過労死の問題である。「なぜ死ぬ前に職場を辞めないのか」という人(外国人に多い)もいるが、「完結体思想」は理の当然として、国そのものだけでなく、その内部における個々の組織も鎖国していることを要求するために、結果、日本人はまだまだ退職、転職という選択をとるのに抵抗感を持っている。(ちなみに日本人が公共の乗り物でお年寄りに席を譲らないのも、知らぬ人には鎖国を決め込むべしというこの圧力を感じているからであろう。知り合いの老人なら譲るはずである)また会社をいったん辞めたら、その後の別の職場での待遇が不利になっていくという実際、及びその実際以上の風説も蔓延させられている。そのため職場を辞めずに、過剰労働のまま行き着くところまで行ってしまうのである。過労死者はいわば〈日本〉に殉死したのだ。ならば〈日本〉の指導鞭撻者は、かつての戦死者のように、過労死者を神様扱いするか、せめて特別な遺族年金でも払えばよいのにと思うが、「法的には退職が自由にできるのに、勝手に過労で死んだのだ」と新しいスタンダードを利用して逃げ切れる。
 
しかしやっとのことだが、企業の労働者に対する職場への全面的帰属要求が強すぎるということは、「ブラック企業」や「社畜」という言葉の流行に見られるように問題になってきている。ここで気を付けたいのは、大企業の場合は労働者をこき使い、できるだけサービス残業をさせて、低賃金で生産性をあげようとしているとの意図はあまり感じられないことだ。むしろ労働者に、職場外の世界を与えたくないがため、つまり現代において広まってしまった〈日本〉とバッティングするもう一方のスタンダードに労働者が染まらないようにするために、なんのかんの理屈をつけて、労働者を職場に縛りつけているというほうが当たっていると思う。若い時に自由な人生時間を与えない学卒一斉採用システムもそのためだろう。そして入社させれば企業は社員に小学校の宿題のようなことまで仕事以外にやらせる。実際、社員側から言わせれば、会社には、いなければならないからいるというのが実感で、日本の会社員は職場にいるのが至上命令なのだ。
 
そもそも労働者を強制的に職場に縛りつけたところで必ずしも生産性が上がるとは限らないし、また大戦以前はホワイトカラーの仕事の拘束時間は、むしろ今ほどではなかったのだから、これは、現代において広まってしまったもう一方のスタンダードを遮断するためと考えて間違いないのではなかろうか。支配者は国民に「自由」「主体性」を認めたくない、認めるのが恐ろしいのだ。国民が自分たちを見捨てるからというより、自分たちに向かってくるのではないかと恐れているために。ネット右翼と呼ばれる連中の書きこみが、自国賞賛より、中韓への嫌悪、憎悪の掻き立てが主になっているのはこのことを裏付けている。彼らの役目は、国民の攻撃性を「内」でなく「外」に振り向けることだからだ。
 
先進国の中で飛びぬけて女性管理職、女性議員が少ないのも、これが理由だろう。これほどの帰属(特に時間)を要求されては、生理的に女性はついて行けないからである。他の先進国では、労働時間は基本守られているので、女性でも能力が発揮できる。日本の企業は、全人生、全存在を会社に帰属させる社員しか昇進させない、正規の組織構成員と見なさない。〈日本〉の企業が終身雇用になってしまうのもこれが理由である。これでは、結婚でリタイアする可能性が高く、子供を産むときに休暇をとる人間、つまり女性はその枠に最初から入れられることがない。だから職業的な高い地位における女性の数を増やしたいなら(数が目標になるというのも危険なのだが)まず、日本企業の「社員の全存在を会社に帰属させる」というやり方を変えなくてはならない。つまり、日本企業が女性を管理職にしないのは、「社員の全存在を会社に帰属させる」というやり方を変えたくないからである。それをやるのはとてつもない不安を呼び起こすからである。国民がわれわれに向かってくるかもしれない!
 
もう一例。いじめがなぜ中学校に多いかは、中学というものが生理的に大人に変化する時期(特に男児の第二次性徴期、通常満14歳前後)に合わせて設けられている教育機関であり、それにあわせて集団主義の一律性へ、すなわち「ひとつの完結体」の一員となるよう縛り込む時期だからだ。中学校の制服なるものは、まさに子供たちをひとつの型にはめこむ鋳型であり、先進諸国に見られない残業的課外授業「部活」なるものは、組織への帰属根性を養うための一大手段である。海外では、子供たちが正規授業以外で学校に縛られるのを嫌がるので、学校の課外授業、つまり部活なるものが流行らないが、日本では逆に「部活に入れ」という圧力までが存在している。部活、特に規律がより厳しく、体にムチ打たれることに慣れのできる運動部に入ってたら、のちに企業に入るときに有利になることなど、日本人なら誰でも知っていることだ。ただし兼部は認められない。二股をかけることは「一つの完結体」のための縛りにならないからである。日本で二重国籍や、副業、夫婦別姓が、解禁になりにくいのも同じ理由である。
 
こんなに縛られ、抑圧を強められては、子供たちは自分たちの個を踏みにじる理不尽と暴力と同一の行動、つまりいじめ、それを行うことによって、屈辱と恐怖の緩和、および理不尽な集団への一体化を進めだして当然というものだろう。どこか変わった個を持っている子が、いじめの標的となるのもこれが理由だ。「完結国家願望」は「完結体」であることを目指しているのだから、理の当然として逃げ場がない。逃げ場がないから自殺してしまう。いじめが、理不尽な「力」を受容するという教育的一過程、つまり「大義」に裏づけられているのであるなら、担任教師がいじめに加担することも、またいじめた生徒側が、ほとんど罪の意識をもたないのも理解に苦しむことではない。先ほどの過労死の話にしても、過労死しそうな状況を管理職上司が放置しているところを鑑みると、まるで過労死やいじめは、労働者や生徒たちが、存在の全帰属を求める〈日本〉という恐ろしい神の支配する世界において、自分たちの精神的安全を確保するために執り行っている現代の人身御供のようにさえ思える。さらに教育側が口先だけで唱える個性重視が、悪循環を生む。なぜなら個性重視は建前で、本音は個性抑圧なら、そのギャップの大きさに比例して、生徒たちが無意識裡に感じる理不尽さ、不満感、攻撃性も大きくならざるを得ないからだ。
 
このようなダブルスタンダードの弊害が生じてしまうのも、古い観念への固執――人々の自由を阻害する「絶対のひとつの完結体」、つまり〈日本〉への固執のためである。新しい観念のほうを、欧米からの輸入物と考え、そっちを駆逐すべきだと考える人もいるだろうが、それをするなら、また江戸時代のような完全鎖国をするしか方法はなかろう。すでに「日本人論」による精神支配は、限界に達していると見るべきである。
 
ここであらためて、本稿における括弧つきの〈日本〉とは、国、すなわち日本国ではなく、「ひとつの特殊性」として因数分解で摘出されたものであることを強調させてもらいたい。私は生まれた国を批判しているのではない。それにプラスアルファされたもの、それを僭称するものを批判しているのである。
 

***

 
⑤予想される反駁への回答
 
問題は〈日本〉への固執。いつまでも閉じられた「ひとつの完結体」であることへの固執
 
――というと当然、〈日本〉追従者側からの反駁があるだろう。何より私自身がそれに疑問と不信を持ちながらも、長くそれとつきあってきたから、どういう駁論が出るかは大体予想できる。そこで仮想のディベートを行ってみたい。
 
第一の反駁として、いささか下品ではあるが、〈日本〉批判に対しておそらくもっとも多く、論にさほど長けてない人でもすぐ口にするだろう次の言葉をあげておこう。
 
「そんなに日本がいやなら、日本から出て行け。外国で暮らせ」
 
彼こそ日本国と〈日本〉を混淆している最右翼者である。むしろこの列島、あるいは日本国から出ていなければいけないのは〈日本〉のほうであり、彼のほうかもしれないのである。そもそも国を本当に愛することとは、その土地に留まり、そこを良くするために戦うことではなかろうか? 
 
ちなみにちまたのニュース報道を見ていての印象論なのだが、この「この国のやり方が嫌ならこの国から出ていけ」というのがよく言われるのは日本の他に、アメリカの気がする。その他の国ではあまりこのような言葉が発されたのを聞かない。私は〈日本〉は自然発生的な国ではないと申し上げたが、それは観念的統一の力が強引に働いている人工的国家ということであり、ここがアメリカもまた同じなのである。地政学においてアメリカが「巨大な島」と言われることもこのことを裏付けていると思われる。最初から土着の単一民族の国の場合は「この国のやり方が嫌ならこの国から出ていけ」という発想自体が出てこないのではあるまいか。
 
次にこれまた攘夷的なよく耳にする主張、もう少し論理的であるところの反駁。
 
「このアングロサクソンが支配する世界で、日本が生き残っていくためには、日本人が一丸団結する思想と体制が必要なのではないのか」
 
これはかつて私も思っていたことである。しかし今では〈日本〉の対外大国恐怖症と、「ひとつの完結体」至上主義による過剰反応だと考えている。そもそも生き残りを目指すのは結構だが、なぜそれが「国」単位なのだろうか。個人単位、家族血族単位では駄目なのか。それはもはや言わずもがな、〈日本〉だけが日本人にとって「全世界」であり、それを絶対の一単位とする「完結体思想」の力が存在するからである。これは対峙相手の捉え方についても適用される。つまりアングロサクソン、つまり英米が世界を支配していると彼らが言うとき、そのアングロサクソンという概念もまたひとつの絶対的単位として使われているということだ。アングロサクソン族にしてもいろんな人間がおり、決して一枚岩ではない。それを一枚岩、つまりひとつの国やひとつの民族と捉えた前提でものを言うのは、まずこちらに、国単位で何事も話を収斂させて考える性癖があるためである。〈日本〉では「完結体思想」のために、展開される世界観内の主体の単位が常に『国』になってしまうのだ。仮に英米が自分たち優位に世界を切り盛りしているのだとしても、彼らのやり方を真似してきたかぎり、同じ穴のムジナ、ミイラ取りがミイラのそしりは免れまい。むしろ彼らが言う「世界を支配している民族」という概念は「ひとつの完結体」の理想の姿なのだ。
 
このようなガチガチの「完結体思想」の信奉者よりも、それへの懐疑を持っている人のほうが、大局が見えていてそれゆえに論理的でありうるだけに、有意義であり手ごわい疑問を提出してくるだろう。まずおだやかなこういう意見もあるであろう。
 
「長所もなく問題ばかりであれば、とうに〈日本〉は崩壊していたはずだ。〈日本〉がもたらしている恩恵もある、それについても言及しないのは片手落ちだ」
 
しかし今、長所は関係ないのである。わけを言おう。現在の日本国の良いところとして一番に挙げられるのは、生活がかなりにおいて保証されているということであろう。治安のよさ、礼儀正しさ、勤勉さもここに包含しうる。しかしこの長所と〈日本〉の問題点は因果関係にない。なぜなら「保証された生活」を確立するためにたとえば過労死もサービス残業もイジメもやむを得ずあるという力学は認められないからだ。ならば過労死やイジメの問題を、いや〈日本〉の問題を考えるにあたって「保証された生活」は関係ないのであり、「保証された生活」と〈日本〉の問題点とを同時に天秤に乗せること、すなわち、「保障された生活」を維持するために〈日本〉の問題は看過すべしという結論も、〈日本〉の問題をなくすために「保証された生活」はあきらめるべしという結論も、ともに見当はずれであることが分かる。〈日本〉の問題は、「保証された生活」とは別の事柄が発生させたものだ。しかし「保証された生活」が〈日本〉とまったく無関係なわけではない。「保証された生活」は、それが反乱、暴動を抑制しているところに〈日本〉の問題点との関係があるように思われる。保証しすぎて国民に余裕を持たせてもならないと考えられてもいるからだ。余裕は積極的な自治精神や、政府批判、政府への攻撃性を育むかもしれない。だから貧しくせわしないが、生活は保証されているという状態が一番都合がよい。かくてあの「豊かな国の貧しい国民」という状態がここに生まれる。これは果たして「恩恵」なのだろうか?
 
次にこういう方がおられるかもしれない。
 
「「完結体思想」を実現せんとして誕生させられたのが日本国であるなら、その完結体であるところの〈日本〉は日本国の生みの親ということになる。ならば最初からそれは一体不可分なのであり、日本国と「一つの完結体」である〈日本〉とは分離不可能なのではないか?」
 
いや、あるふたつが最初から同時にあったことは、そのふたつが不可分であることを意味していない。すでに述べたように、「完結体思想」の実行推進者たちは、それを一体のものと見せかける努力を続けてきたが。そもそも「ひとつの完結体」というのは抽象概念だが、それだけにある具象(この場合「国」)に憑依しなければ、実際的な活動は開始しない性質のものである。そして人は実際的な活動があってはじめてその事象を認識するので、認識したときにこの抽象概念と憑依された具象を一体のものとして捉えてしまうにすぎない。
 
似たような視点としてこういう疑問も出よう。
 
「〈日本〉という国号自体が、その対外的な「完結国家」を表すものとして、「日出処」でなく「天皇の本にある国」の意味であるなら、〈日本〉を悪しき思想として駆逐する必要が生じれば、この国は〈日本〉という国号を捨てなければならないことになると思うが、そういうことでいいのか?」
 
論理的にいえば国号を変えるのが可能なのは言うまでもない。しかし私は国号を変える必要はあまり認めない。すでに世界的に「日出処」が語源だという認識がなされているし、「日本」という字面そのものからは「ひとつの完結体」の思想は感得できないからである。もしかしたら〈日本〉という国号は、本当は「天皇の本にある国」の意味だったのかもしれないが、そのような意味が込められていたとしても、なくすべき真のものはそれではなく、人々の自由を阻害する「完結体思想」の悪意だからである。畢竟、その悪意さえ撤廃されれば、日の丸だって君が代だっていいのである。しかし「完結体思想」の擁護者には暴力賛美ばかりがあって「愛」が欠けすぎではなかろうか。
 
さらに予想される、より本質的、未来的な駁論がある。
 
「国としての日本と、「ひとつの完結体」であろうとする特殊な〈日本〉とを分離し、後者を仮に駆逐してしまえば、あとに日本に残るのは、無個性、無機的なものだけではないのか?」
 
つまり、「完結体思想」が生んだ〈日本〉なるものに、日本文化は多く拠ってきたのであり、「完結体思想」が生んだ〈日本〉は、日本文化の中核、あるいは最上位概念であったのではないかという意見である。しかし世界に誇れる日本文化を点検すれば、「完結体思想」から生まれたものは案外と少ないことが分かる。たとえば世界の近代建築に大きな影響を与えた日本建築、特に住宅建築のその特徴は、言うまでもなく観念からではなく気候風土から生まれたものだ。その他、着物にしても、浮世絵にしても、日本料理にしても、昨今のオタク文化にしても、特に「完結体思想」の遺伝子は認められない。むしろそれへの反動、逃避場所として生まれたものが多い。先にも挙げた「奈良の大仏」や「天守閣」、さらには「戦艦大和」や「スカイツリー」など巨大主義的なものは「完結体思想」の世界席巻思想面に則して生まれたと言えるかもしれないが、これらは基本的に外国の真似であり、外国への対抗意識の産物である。各国の文化は、その国の気候風土や地理的条件を通じて現れた人間の普遍的なる必要性と欲求の成果を言うはずだ。「世界一大きい」などは比較での価値であって、文化の真髄の話ではない。
 
とはいえ、「完結体思想」が生んだ〈日本〉なるものが、善悪、個人の好き嫌いはともかく、ひとつの文化的産物と呼べることは確かであろう。対外的に完全な安全体でありたいという考え自体は、ある意味、普遍の欲求であり、条件さえ揃えば誰しも目指そうとしそうなことである。〈日本〉の場合にしても、この絶妙な大陸からの位置にある島国という地理的条件がなかったら、そのような考えは実行しなかっただろうし、実行しても失敗したであろう。ということは、「完結体思想」もまた、この国の地理的条件が生んだ日本建築などの文化とせいぜい横並びにあるものでしかないということになる。つまり、それはこの国の文化的最上位の概念ではないのだ。これを最上位と目するのは恣意にすぎない。
 
最後に、もっとも私が答えにくいと考える駁論としてこういうものを考える。
 
「「完結体思想」が生んだ〈日本〉を捨てて、日本国内の秩序を保てるのか? それは何か代わりのものを要する集団生活に必須の道徳の根本なのであって、切除してしまえば済む話ではないのではないか。もしそうである場合、あなたはその代替思想を提示できるのか」
 
日本は(一応表面的には)争いごとの少ない平和な国だが、それは「ひとつの完結体」であろうとする「力」が働いての結果ではないかということである。「皆が自由に生きだしたら、秩序が保てなくなる」――これは〈日本〉について議論していて私自身よく聞く意見でもある。混乱がおきるか、そもそも代替思想などというものが本当に要るのか、今の私にはよく分からない。しかし、混乱が起きるとしたらそれは結局、「完結体思想」信奉者による妨害による部分が大きいと予想する。ならば、それを封殺するのに代替思想は確かに必要なのかもしれない。この日本因数分解論がそのひとつだといえば大言壮語すぎるであろうか。いや我田引水ながらそれは大言壮語でもないのかもしれない。次に最後に述べることは、楽観的に過ぎるように思われるかもしれないが、どうも私だけの予測ではないらしく、よく耳にすることでもある。それは、〈日本〉というものがなくなるときはあっさりなくなるのではないかという予測である。
 
理由はこうだ。私は「日本教」とも表現したが、〈日本〉は、宗教のような超越的レベルで信じられているのではなく、実は、世俗的な統治システムレベル、便宜的なレベルで信じられていると思えるからだ。また大抵の日本人は進んでそれを信じているのではなく、逃げるところがないから仕方なく処世術としてそれに合わせているというのが本当のところだと感じられるからだ。「日本教」に超越的な部分があるとすれば、かつての「天皇は神の子孫であり、すなわち現人神である」というものがその最たるものになるだろうが、これは先の大戦中ですら心の底から信じている人はほとんどいなかった。森鷗外が小説『かのように』で書いたように、そうである「かのように」意識的に振舞わなければいけないものに過ぎなかった。上述したように、マスコミが常に「日本」「日本」と言い続けるのも、それは簡単にド忘れしてしまいかねないでっちあげに過ぎないためだ。超越的、根源的基盤を持たず、便宜的なものが土台でしかないなら、その便宜がなくなれば、それは簡単に消滅してしまって当たり前であろう。支配者層にしても〈日本〉にとって代わる別の便宜が見つかればそっちに簡単に乗り換えるのではないか。大事なのは実は〈日本〉ではなく、本当は「自分」だからである。
 
だから、「日本」というものが国と宗教とに分けられるという考えが浸透すれば、国への愛をそこなうことなく、一元的束縛、恣意的束縛から日本人は解放されていくのではあるまいかと私は思うのである。そのときこそ、真に国と民は異物同士ではない、同質一体のものへと生まれかわり、日本人――いや日本国にいる人間たちの精神生活は真に豊かな、納得のいくものに変わると、私には信じられるのである。
 
以上、「日本」という概念を因数分解して捉える必要があると私が力説するゆえんである。