たまきちの「真実とは私だ」

事件、歴史、国家の真実を追求しております。芸術エッセイの『ある幻想画家の手記』https://gensougaka.hatenablog.com/もやってます。メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

日本に哲学者がいないのはなぜか

 日本には哲学学者はいるが、哲学者そのものはいないといわれる。しかし私は日本にも、哲学的思考の持ち主はいると思っている。ただ、それを受け入れるベースが日本にはないのだ。

哲学とはものごとの根源を考え抜くものだ。そして根源の説明というのは人間には必ず必要なものである。そんなもの要らないという人は、実はご自分にちゃんとその説明が与えられていることを知らないだけである。
 
そう、大抵の社会では、そこまで人間は考えないように済むようになっている。それは宗教があるからである。宗教における神は、この世の事象をなんでも説明してしまうジョーカーだ。「すべて神の思し召し」となったら、それ以上「根源」については考えずに済む。どこまでいくか分からない人間の根源探求の思考運動を、どこかで止めるために神は発明されたに違いないのだ。
 
近代以降の欧米において哲学者が多くいるのは、そこが、神がかつてはいたのだが、死んだ、あるいは死に始め、人間がすべてを考えなくてはならなかった世界だからだ。だから根源を考え抜く哲学というものが学問として、専門職業として成立した。中にはいまだ神を軸にしている哲学者もいるが、それは神の見直し、刷新であり、神なるものはすでに相対化されてしまっている。
 
これは哲学に限らない。科学もそうである。日本の科学技術は主に欧米の模倣・応用で、根源的なオリジナリティは確かに欧米のほうにある。が、これは彼らが、神を殺したがゆえ、万能という神の属性を、人間が司らなければならなくなってしまったゆえの宿命ではなかったか。他に、哲学者が多く輩出したといえば古代ギリシアだが、古代ギリシア、特にアテネでは、オリンポスの神々が祀られていたとはいえ、民主政治体制がとられ、人間が決めなければいけない世界だったという点で近代欧米と同じ状況にあった。
 
こう考えたら、なぜ、日本には哲学者がいないか、というか、根源までを考える思考が全社会ベースで受け入れる土壌がないかわかるだろう。実際の今の日本は、民主主義ではなく、宗教があり、神もいるからである。簡単に言えば、いまだ「日本人論」などで論じられているこの国の特殊性、それ自体が実は宗教であり、民主主義よりそれによって日本という国は動いているのである。それは日本教とでも呼ぶべきものであって、それが日本人にとっての教義であり、すべての説明になっているのだ。「そんなことはない!」という人も実際、日々の行動、言動はその日本教の教義にしっかり従ってはいまいか省みてください。だから日本には、哲学者を受け入れる土壌がないし、哲学者も出ない。
 
実際、日本の思想家と呼ばれる人たちの著書はまったくと言っていいほど、海外では訳されてない。それは、一見、哲学書思想書めいていても、いわゆる「日本人論」と同じく、日本人としての考え方や行動様式を示唆する指南書であるにすぎないからだ。そんなものは日本人じゃない人たちには無用に決まってる。いわば日本の知識人というのは独立した知識人ではなく、日本教という宗教の説教司祭たちなのである
 
中には、外国の哲学を紹介したり、もてあそぶ人はいる。この前、こういうこぼれ話を読んだ。ある人がチェーホフに「総合雑誌の論文はなぜつまらないのですか」と問うと、チェーホフはこう答えたという。「あれは仲間内の文学なんですよ。ひとりが何か書くと、誰かがそれに反駁し、次に誰かが調停に入る。そうやって身内だけで遊んでいるんですよ」 笑ったのはこのこぼれ話のタイトルである。――『日本の話ではありません』
 
実際のところ、日本における「テツガク」とやらは、「哲学ランド」というテーマパークで、われわれの社会や生活と関係のないどうでもいいことについて隠語を使って語り合っているだけのものではないのかという気がよくする。