たまきちの「真実とは私だ」

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「やまと」という国など実はなかった

「やまと」は日本の古称だと思っている人が多いが、実はこの国を昔、「やまと」と呼んでいた証拠は何もない。

この国の名は「やまと」――それは、江戸時代後期の有名な国学者本居宣長が、漢意(からごころ)に染まる前のこの国独自の純粋なものを追及しているときに、『日本』という漢字名(つまりは外国語名!)を嫌い、なんとか見つけてきた国名なのだ。確かに日本書紀には「日本これをばやまとという、以下これにならえ」と注釈はある。しかし、これは後からつけた注釈である。実際、誰も日本を「やまと」なんて読まない。実際のところ、この国を「やまと」となど呼んでなかったから定着しなかったのだろう。今日でも、「やまと」をこの国の呼称として使うのは「大和魂」「大和言葉」という観念的な言葉を口にするときくらいだけで、これらも宣長以後に広まった言葉である。そもそも本当にこの列島の国を太古から「やまと」と呼んでいたなら、宣長以前から、そして今でもそう呼んでいて良いはずである

かといって「やまと」が奈良地方を指す地方名だったかというとこれも怪しいのである。事実、日本書紀には、奈良地方を指す言葉として「やまと」という言葉は出てこないのだ。日本書紀に出てくる奈良地方の地名は、橿原とか磯城とか現在も使われている地名が出てくるだけである。頻繁にこの国を指す「倭」という文字は出てくるが、これは中国が我が国をそう呼ぶと当てはめた「漢字」に過ぎず、これを「やまと」と読んでいい根拠は、『日本』を「やまと」と呼ぶ以上に示されていない。「倭」という漢字は、日本を指す文字記号くらいの意味しかないのだ。
 
「やまと」が日本書紀に出てくるのは、挿入されている歌(詩)にだけ、万葉仮名で出てくるだけである。古事記に出てくる「やまと」も挿入されている歌だけに登場する。万葉集にはよく「やまと」が出てくるが、それももちろん全部歌であり、これら歌に出てくる「やまと」は国か地方名かよくわからない。しかし日本書紀では「やまと」は国名とされている。いったいどういうことだろうか?
 
語源でもはっきりしていれば、「やまと」は地名か国名かはっきりするかもしれない。が、なんと「やまと」は語源不明なのである平安時代にはすでにこのことが謎あつかいされており、「山についた足跡」から来たとか、妙な推測が横行していた。本居先生も、山壺か山内がなまったとか、お茶をにごすようなことをいうばかりである。国名か地名かはさておいたとしても、これほど重要な固有名詞が語源不明とは、なんとも妙な話ではないか。日本書紀には、日向や浪速など、地名の語源はかなり説明があるのにである。
 
思うに「やまと」が語源不明なのは、それがそこ(奈良地方でも国名でもいいが)に元からついていた地名ではないからではないか。つまり「やまと」という地名はその言葉づらだけをあるところから拝借したのではないか
 
つまりこういうことである。『日本』という名を持つ国は、663年の白村江の戦いに負けた百済倭国の連合軍が列島に逃げ込んで興した国であると考えられる。その直後に正史として日本書紀が編まれた(720年完成)。そこには、太古、神武天皇が現在の奈良地方に都を置いて『日本』を作ったと書かれている。これは当時、奈良にいた『日本』の支配者が自分たちが太古からこの列島を支配していたということにしたかったからそう書いたのにちがいない。しかし実はこの時点では、奈良地方は「やまと」という地名でなかったのではないか。それが、そこを「やまと」という地名で呼ばないといけなくなった事態が起こってしまったのである
 
それは、中国の史書魏志』の倭人伝に、西暦220年ごろ列島の倭国邪馬台国を都としていた」こと、および、600年ごろの隋書にも、倭国の都は邪靡堆と書かれていることが日本側に判明したことだ。日本書紀編纂後に日本側がこれらのことを知ったのはのちの「魏志をもとにした日本書紀への注釈づけ」からしてほぼまちがいがない。このとき奈良地方の名称が「やまと」なら別に問題はなかったのだ。だが、そうではなかったら? このままでは日本書紀に書いてあることがウソであるとバレてしまう。そこで整合を図ろうと、現在の首都である奈良地方を「やまと」と呼ぶことに決め、ひいては、それをさらに強調するために、『日本』と名付けた国名の読み方にまでしてしまったのではないか?
 
これはあながち根拠のない推測でもない。なぜなら、魏志倭人伝には、邪馬台国という国のみならず、卑弥呼なる女王が頂点にいたということになっていて、これも日本書紀の記述と齟齬しているわけだが、こっちの女王がいた問題のほうは、歴代天皇で章立てしている日本書紀に、ただひとり皇后である神功皇后の章を立て(おそらくあとから差し入れた)、「仲哀天皇の皇妃である神功皇后魏志倭人伝では卑弥呼と書かれちゃったらしいのよん」という注釈までつけ、苦しいながらもなんとか整合性を持たせているからである。魏志倭人伝のほうもひたすら南へ行くばかりで適当なので、こっちもこれくらいは誤差範囲と思ってもらえるだろうというわけだ。
 
のみならず、のちの『新唐書』では「倭国と日本は違う国なのか」と中国側が尋ねたところ、「日本人は倭という漢字は良くない意味だと知ったので、日本と自ら名乗ったとも、倭国が日本という国号を盗んだとも言った」と、「日本」という国号の出自についてはぐらかすような物言いをしており、中国側に不信感を持たれてしまっている。この「国号を盗んだ(原文は”冒した”)」の意味はもちろんよく分かってないわけだが、支配、併合ならともかく、「国号を盗む」というのは唐突すぎるだけに、かえってそういうことがあったのは事実だったのではないかと思えるのである。
 
とにかくはっきりしているのは、「やまたい」だろうが「やまい」だろうが「やまと」だろうが、それらはすべて地方名であり、統一国名、国号ではなかったということである。もちろん、列島が統一されたときの行政中心地は「やまと」、つまり奈良であり、それゆえ「やまと」が列島の全体国名のように使われることはあったかもしれない。現在でも東京に政府があるゆえ、「東京は中国のやり方に反発した」などとも書かれる。沖縄人が沖縄人以外の日本人を「ヤマトンチュ」と呼ぶなどもそういった使い方の名残りかもしれない。
 
しかし正直なところ、日本という国名があるのだから、この国のことを「やまと」と言われてもピンと来ないというのが現代1日本人としての正直な感想である。