たまきちの「真実とは私だ」

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サンスクリット語はギリシア語の変化したもの!?

 インドのサンスクリット語ギリシャ語が似ているのはなぜだろうか?

梵語とも呼ばれ、お経の原典の言葉でもあり、古代インドの雅語とも学問語とも言われるサンスクリット語は、古典ギリシア語やラテン語にきわめて類似していて、この三つは三大古典語などとも言われている。特にサンスクリット語ギリシャ語との共通点はよく知られ、それゆえに、ヨーロッパ人と古代インド人(特に支配者層であったインド人)はもともと同民族であり、古代、黒海あるいはカスピ海あたりの原住地から分かれて移動し、それぞれヨーロッパ人、インド人となったのだという説が生まれ、それはかつて日本の教科書にも載っていた。また、その元の民族をアーリア人と呼び、ナチスが政治的に利用したことも有名な話である。
 
しかし、このアーリアン学説は、考古学的証拠が皆無なので、現代ではほぼ否定されている。しかし、サンスクリット語ギリシャ語がなぜ似ているかという疑問は残る。これはどう説明したらいいのだろう?
 
サンスクリットギリシャ語はともに(ラテン語もそうだが)、名詞が格により、また動詞が主語により変化する屈折語という言語分類に属している。類似を数例述べておこう。『私は与える』なら、サンスクリットでは、「与える」という意味の語根daを二度繰り返して「与える」という動詞の語幹となし、その末尾に「私が」という意味のmiを語尾変化としてつけ、dadami となるが、古典ギリシャ語でもほぼ同じで、「与える」という意味の語根doを少し変化はつくものの二度繰り返し、didoを「与える」という動詞の語幹となし、やはり「私が」という意味のmiを語尾に付け、didomi となる。比較級は形容詞のあとにサンスクリットでは~taraをつける。(英語の~erと同じ機能)古典ギリシャ語では~terosをつける。(文法でなく語彙の類似はいくらでもあるので触れない)
 
なぜ遠く離れたインドとギリシャの言葉が似ているのか。
 
しかしこれは簡単に解ける話なのである。つまり、ラテン語がイタリア語、フランス語、スペイン語に変化したように、ギリシャ語がサンスクリット語に変化したと考えれば済むことなのだ。紀元前4世紀には、インド西北部のバクトリア(現アフガニスタン北部)にはアレクサンドロス大王の大遠征により、ギリシア人が植民されていて、もうその一帯ではギリシア語が使われていたのだから。
 
実際、アレクサンドロスの手によりメソポタミアを中心とした文化圏の世界共通語はギリシア語になっていた。新約聖書の原典もギリシア語である。紀元前3世紀のインド・マウリヤ朝アショーカ王が立てた碑文なども、インド西部のものはギリシア語で刻まれている。その後のバクトリアや歴代北西インド王朝の貨幣にもギリシア文字が入っているし、ガンダーラ(現パキスタン北部)の仏像彫刻がギリシア彫刻の影響を受けているのも多くの人が知っていることである。加えて、1961年にアフガニスタン東北部で発見された前3世紀ごろの古代都市アイ・ハヌムは、コリント式の柱頭、円形劇場、体育館、アクロポリスまでが発見され、ギリシア人の建設したものであることが判明している。(ただしソ連のアフガン侵攻で戦場となり遺跡は破壊されてしまった)
 
しかしサンスクリットに詳しい人は、この「インドで変化したギリシャ語がサンスクリット」という説にはひとつの大きな弱点があることを指摘せずにはいられないだろう。それは、サンスクリットガンダーラパーニニという言語学者により今の形に整備されたため、ほぼ形を変えずに現代まで伝わってきたのだが、このパーニニなる人物が、紀元前4,5世紀の人とされているからだ。これでは、アレクサンドロスがインドに来る前に、サンスクリットはインドにあったことになる。
 
しかし調べてみると、パーニニが紀元前4,5世紀の人というのは、あらゆる文献でそうなっているが、実は何も根拠はないのである! 古代インドは年号、及び文書による記録がほとんどないので、歴史事件の年代が確定できないことが多い。ときには学者によって500年(!)も説がずれるときがある。釈迦の生年さえ100年ずれた2説があり、今だ確定していない。
 
その反面、サンスクリット語が紀元前には存在しなかったと疑わせる証拠はいくつもある。
 
たとえばインドの古い文献(文献といってもインドの場合、上記のパーニニの整備文法も含めて、すべては長く口伝で伝わってきたのだが)、もっとも古い伝承ヴェーダなどは、サンスクリットで伝わってはいない。それはヴェーダ語といって区分されている。また、前述の紀元前3世紀のアショーカ王が立てた碑文のなかには、ギリシア語のものはあるのに、なぜかサンスクリット語のものはない。(ときおり、サンスクリットで刻まれていると書かれている文献を見かけるがこれは誤りである。これはインドの古語はすなわちサンスクリット語だと自動的に連想してしまう人が大勢いるためであろう)
 
実際サンスクリット文学がインドで花開いたのは紀元後のことだ。マヌ法典や、有名な性の指南書カーマスートラ、及び大乗仏教聖典などはクシャーナ王朝の時代(1、2世紀)のものである。また現在残っている最も古いサンスクリット文献の物的オリジナル(つまり口伝でない完全な物的証拠)はサカ王朝のルドラダーマン一世の碑文になるが、これは2世紀のものだ。つまり物的証拠から鑑みると、2世紀前にサンスクリットが存在したかは何も証拠がないのである。
 
また、三蔵法師のモデルとなった玄奘の『大唐西域記』(7世紀)には、ガンダーラのシャラートゥラという村にパーニニの像があったと記されているが、その像というのも、ギリシアの彫刻文化の影響を受けたものではなかったか。そもそも実在の人物の彫像というのは、イエスブッダ聖徳太子のような神格化されている人物はともかく、君主や学者はその人が生きているあいだ、もしくはその人の顔を知っている人がいるうちに作られるのが普通である。アレクサンドロスたちが来る以前に、偉人の像を作る習慣がガンダーラにあったなら、ガンダーラからアレクサンドロス侵入以前の彫刻も出土して然るべきのはずであるが、そんなものは出土していない。
 
ここまで見てくると、パーニニが紀元前4,5世紀の人だというのはこじつけであり、そのこじつけた理由ももはや明確であろう。それは19世紀のヨーロッパ人たちが、前述のアーリアン学説をでっちあげたかったためだ。それはもともと、19世紀のロマン主義の影響に過ぎなかったのかもしれないが、やがて政治的に利用されたていった。すでに現代インドの学者などからは、アーリアン学説は西欧人優位主義の妄想であり、ヨーロッパ人による近世のインド支配を正当化する役割を果たしていたという指摘がなされている。インドを支配するイギリス人は、インドの従来の支配者層と同じ民族であり、同じことをしただけだというわけだ。確かにこの考えを正当化するなら、サンスクリット語を整備したパーニニアレクサンドロス以後の人であってはコマる。パーニニには紀元前4、5世紀の人だったということにしてもらいたい。(今後そういう証拠がでっちあげられないとも限らないと思うが)まさに「歴史とは現代史である」ということになっているわけだ。
 
私は実際のサンスクリットの生成過程は次のようなものだったと考える。
 
北西インドはユーラシア大陸の中央にあり、多数の違う言語の民族が到来しては消え(今だってそうだ。先述のソ連のアフガン侵攻にしても)、言語も常に交じり合っていた。上述のように紀元前4世紀からガンダーラにおいては、文化的に有力な言葉はギリシャ語になっていた。が、300年も経てば、先住民の言語と混淆し、神道、仏教と混交して独自の宗教に変質した隠れキリシタンの宗教のように、様々なかたちに変質が進んでしまっていたと思うのである。そんな変質したギリシャ語系の言語を、ある王朝文化が熟したとき、ナポレオンがフランス語を統一したように、一本化しようとする動きが知識人のあいだで出てきた。そうして王朝がパーニニに言語の整備を命じたということだと思うのだ。サンスクリットの、ギリシア語やラテン語以上の規則の精密さや、また「サンスクリット」という言葉自体、「浄化された、完璧な」という意味であることも、その人工的整備性を裏付けているように思う。
 
そもそもパーニニひとりが頑張って整備しても、それを周囲が承認してくれなければ何にもなるまい。また周囲が認める偉業だったとしても無目的に言葉を整備してもしょうがない。やはり文化的盛り上がりがあった時代、それに即して整備されたという見方のほうが現実的である。また、そんな言葉の整備が民衆までに行きわたるなど考えられないから、一部の人々、つまり知識人のために整備されたと考えるのもおかしな話ではない。
 
「知識人の間では」と表現したが、実際サンスクリットは最初から知識人の独占物であった。グプタ王朝時代に発展したサンスクリット戯曲では(これもギリシア劇の影響があったのではないか)、高等教育を受けた登場人物のみ、それも男性のみがサンスクリットでしゃべっている。それで戯曲を観賞する人間皆がその戯曲を理解できるのかという疑問もわいてくるが、日本でも高貴な人間、高等教育を受けた人間が、庶民と違う雅な、あるいは堅苦しい文語のような喋り方をするのはあったことである。現在でもサンスクリットはパンディットと呼ばれるインドの伝統的知識人たちによって守られていて、インドではサンスクリット語専門のテレビ・チャンネルもある。(ゆえにか、ときおり、サンスクリット語には母語話者が現在も存在すると書かれているものを見かけるが、これも誤認識である。なお上座部仏教の原典の言葉であるパーリ語サンスクリットが簡易な方向へ変化したものだと思われる)
 
のみならず、2世紀となると、クシャーナ王朝では、金の通貨単位がローマと同じディナーラー=デナリウスであったことなど、ローマ帝国とも交流があり、ラテン語もインドに入ってきていた。クシャーナ王朝に招聘されたローマの知識人も少なからずおり(ローマ帝国でも学問上はラテン語よりギリシア語が優位だったのでローマの知識人はたいていギリシア語も会得していた)、そうであれば、サンスクリット整備にはラテン語も参考にされた可能性もある。方言の多いギリシア語より、中央政権下で法の書き言葉として完成されていたラテン語のほうが数段統一整備されていたからだ。(ちなみに19世紀末ポーランドザメンホフらがつくりだした人工言語エスペラントラテン語がもとになっている)もしかしたらインドではギリシア人メナンドロスをミランダと呼んだように、パーニニも本当はパニアヌスとかが本名で、そのときにローマから招聘された学者の一人だった可能性も考えられないことはないのである。
 
Sanskrit was derived from Greek. We don't have a proof of what Panini was born in B.C. 4 century.